宗教と経済



宗教は経済とも深く結びついています。宗教と言うと経済と離れている、経済とは世俗的なものだから、宗教は金とは縁がない、というのが嘘であることは誰にもわかっています。しかし一方で、金の欲、男女の愛欲はどの宗教でも、悪いものと位置づけられていて、その欲は人間に元から備わっているものだから、修行して、その欲から解放されることが必要だと考えています。例外的に欲は逃れられないものだから、開き直って肯定する、という考えの宗教もありますが、少数です。実際問題として、宗教者にも食べていかなくてはなりませんし、生活の場も必要です。食べ物や住居をすべて提供してもらう、という場合もあります。そして、それらを提供することも修行の一つと位置付けられている宗派もあります。仏教の布施はその1つです。「お布施」は本来、信者の修行であり、ご利益(りやく)を得るための費用ではありません。そのため、よく「ご志納」「お志(こころざし)」と書いてありますが、それは「対価ではない」という意味です。言い換えると、お布施に「コスパ」は存在しないのです。しかし、どの宗教にも似たような献金システムがあります。そのお金は教会などの施設運営に使われるのですが、宗教者の生活費との区別が曖昧になりがちです。西洋のキリスト教の修道院などでは、今でも農業をして、自給生活をしている形態を残しているところもありますが、その中でも葡萄を栽培してワインを作り、小麦でパンを作ったりしています。これは宗教的にも重要な食品なのですが、元々、その土地では必須の食料品だったといえます。ワインは、日本では酒扱いで、仏教では禁止品目であり、贅沢品扱いしていますから、西洋のこの文化は理解できないかもしれません。それでも、神道のお神酒には寛容ですから、微妙で曖昧なのが日本文化です。欧米の修道院の中にはワイン作り、とくにその二次製品であるシャンペンで有名な寺院があり、それがシャトーであることはあまり知られていません。かのドン・ペリニオンは修道僧です。こうした宗教関連の食品や、日本の神社仏閣でご朱印やお守りなどのグッズ販売も重要な収入源です。京都の庭園や伽藍の拝観料も収入源です。中には幼稚園や学校を経営している所もたくさんあります。封建時代はこうした寺院などには所領という収入減がありました。日本では、田の地主であったため、その小作人の苗字が神田や寺田なのは今もその痕跡を残しています。西洋でも教会は広大な領地をもっていて、貴族と同様の権威をもっていました。日本の身分制度では士農工商となっていて、僧侶や神官がどれに属するのか、わかる人は少ないと思います。お気づきのように貴族などの公家はここに入っていません。僧侶や神官は貴族と同様の身分でした。西洋で僧が貴族同様の身分なのは洋の東西を問わず、似たような社会構造になっていました。ところが近代の革命や民主主義により、貴族は廃止され、同時に僧階級も消滅し、平民化され、同時に一種の宗教弾圧により、領地がなくなり、その結果、現在のような経済活動に変わったという歴史があります。

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