宗教と身振り
宗教は言語と深いつながりがありますが、身振りと言うか、所作が儀式などに多く採り入れれており、舞踊などまで含めると、不可分になっています。私たちが「手を合わせる」というのも宗教的所作ですが、ほとんど無意識に行動します。手を合わせる所作は仏教では普遍的ですが、キリスト教圏も祈りの所作としてすることがあります。キリスト教圏では、正教やカトリックでは「十字を切る」所作をしますが、彼らはほぼ無意識にします。日本人には珍しく見える所作ですが、逆にキリスト教徒からすれば、合掌という所作も珍しくみえます。お辞儀にいたっては、日本人には挨拶に付随する動作であって、相手に見えない場合、たとえば電話でも、ついペコペコしてしまうほど、無意識な所作になっています。このように、ある宗教圏では日常的な所作で無意識な行動であっても、他の宗教圏では違和感があるものがあり、また同じ所作でも宗教圏によって意味や使用法や状況が異なることもしばしばあります。当然、これが分化衝突になる可能性は高く、宗教と繋がっている分、余計に感情的な反発になりやすい側面があります。自分たちにとって無意識になっている所作を、他人に珍しがられたり、否定されると、侮辱と感じるのが自然な現象です。当然、反撃があったり、争いになることも多いわけです。
こうした宗教的な所作や身振りの起源についても、いろいろな考察が昔からあります。神様のことばの集大成である聖書に書いてあることもありますが、すべての所作がそれで説明されているわけでなく、謎になります。進化論の立場からすれば、言語の発生や宗教の発生を考える上で大きなヒントとなります。所作の多くは手で行うことが多いため、手と脳の発達が関係していると推測されやすく、化石から推定できる人類の形態的変化から推定もできそうな感じです。手が自由になったのは、二足歩行が始まったことによる、と考えるのが定説なので、手の身振りの起源は二足歩行にあると考える人が多いようです。これに脳の大容量化の進化過程が一致すれば、この仮説は証明されたことになるのですが、なかなかそうはいかないようです。そもそも脳の容量と機能の発達が一致しているとはかぎりません。一般論としては、動物全般を眺めて、そういう推論は可能ですが、人間より大きな頭蓋骨を持つ動物、たとえば象などの機能が人間より優れている、という判断はむずかしそうです。化石からは頭蓋骨の容積は計算できても、脳自体が残っていることはないので、脳容量の推定はむずかしいのです。現世人類は人類ごとに脳容積と脳容量の関係は平均的に調べられますが、機能の比較はなかなか困難です。人種的差異よりも個人差つまり個体差があまりに大きいため、平均の意味に疑問が残ります。結果としては、身振りの起源もなかなか特定が難しく、そこからの二次推定である、言語や宗教についての起源研究もなかなか結論には至りません。最近のDNA研究やiPS細胞培養による研究が、また新しい研究視点を提供してくれる可能性もあります。
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