最上徳内

天明6年(1786)5月5日(旧暦)江戸幕府の命を受けた最上徳内(もがみとくない)が択捉島(えとろふとう)に上陸しました。最上徳内は間宮林蔵に比べると、あまり有名ではありませんが、間宮より少し前の江戸中期から後期にかけて北方を探検した人です。
「実家は貧しい農家だったが、長男であるにもかかわらず家業を弟たちに任せ学問を志し、奉公の身の上になり奉公先で学問を積んだ後、師の代理として下人扱いで幕府の蝦夷地(北海道)調査に随行した。後に商家の婿となり、さらに幕府政争と蝦夷地情勢の不安定から、一旦は罪人として入牢しながらも、その抜群の体験と能力によって、のちに蝦夷地の専門家として取り立てられ幕臣となった。蝦夷地に渡ること9回で、当時随一の「蝦夷通」として知られ、身分差別に厳しい江戸時代には異例ともいえる立身出世を果たした人物である。シーボルトが最も信頼を寄せていた日本人ともいわれ、その知識は世界的なものにまでなったといわれる」(wikipediaより)
シーボルトの著書「日本」に最上の肖像画が描かれているそうです。当時の幕府はロシアの北方進出(南下)に対する備えや、蝦夷地交易などを目的に老中の田沼意次らが蝦夷地開発を企画し、北方探索が行われていました。このあたりの状況はNHKの「べらぼう」にも出てくるかもしれません。天明5年(1785)最上徳内の師の本多利明が蝦夷地調査団の東蝦夷地検分隊への随行を許されるが、利明は病のため徳内を代役に推薦し、山口鉄五郎隊に人夫として所属しました。蝦夷地では青島俊蔵らと共に釧路から厚岸、根室まで探索、地理やアイヌの生活や風俗などを調査しました。千島、樺太あたりまで探検、アイヌの首長イコトイに案内されて国後(くなしり)島北端にも渡りました。徳内は蝦夷地での活躍を認められ、松前で越冬して翌天明6年には単身で再び国後島へ渡り、イコトイらとともに択捉島、得撫(うるっぷ)島へも渡りました。択捉島では交易のため滞在していたロシア人とも接触、ロシア人の択捉島在住を確認し、アイヌを仲介にして彼らと交友してロシア事情を学びました。
徳内は幕府に蝦夷地の重要性を訴えました。北方探索の功労者として評価された一方、場所請負制などを行っていた松前藩には危険人物として警戒されました。同じ頃、江戸城では10代将軍・徳川家治が死去、反田沼派が台頭して田沼意次は失脚、田沼派は排斥されてしまいます。松平定信が老中となって寛政の改革を始め、蝦夷地開発は中止となりました。徳内と青島はお役御免となって江戸へ帰還しました。しかし寛政元年(1789)、蝦夷地において、アイヌが蜂起するクナシリ・メナシの戦いが起こり、事態を知った徳内は江戸の青島へ知らせ、再起用されて、真相調査のため派遣された青島は徳内を同行させ、徳内3度目の蝦夷地上陸となったのです。しかしアイヌの騒動は収まっており、幕府は青島らの蝦夷地における職務を離れた行動やアイヌとの交流を問題視し、青島は背任を疑われ、徳内とともに入牢し、青島は牢内で病死し、徳内も病になったのですが、利明らの運動により、寛政2年(1790)には無罪となって釈放されました。
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