薩長同盟

慶応元年(1865)閏5月、 坂本龍馬が長州藩の桂小五郎と会談し薩長連合が始動したとされています。薩長同盟は、江戸時代後期に、坂本龍馬の仲介で近衛家別邸御花畑屋敷(小松帯刀邸)(京都市上京区)で締結されました、薩摩藩と長州藩の政治的、軍事的同盟。薩長盟約、薩長連合ともいいます。
その前の薩摩藩は公武合体の立場から幕府の開国路線を支持しつつ幕政改革を求めたのに対し、長州藩は急進的な破約攘夷論を奉じて反幕的姿勢を強めるなど、両者は容易に相容れない立場にありました。薩摩藩は文久3年(1863)に会津藩と協力し、長州藩勢力を京都政界から追放しました(八月十八日の政変)。翌元治元年(1864)には上京出兵してきた長州藩兵と戦火を交え、敗走させました(禁門の変)。ここに至り両者の敵対関係は決定的となったのです。禁門の変で朝敵となった長州藩は、幕府から第一次長州征討を受けるなど窮地に陥りました。一方で薩摩藩も、自藩の主張する幕政改革の展望を開くことができず大久保利通や西郷隆盛らを中心に幕府に対する強硬論が高まっていきました。この時点で、薩摩藩も長州藩も幕府への反目があり、幕府が「共通の敵」となったわけです。
その長州・薩摩間の和睦は、福岡藩の尊皇攘夷派の周旋によって、イギリスの駐日公使であるハリー・パークスが高杉晋作と会談したり、薩摩や同じく幕末の政界で影響力を持っていた土佐藩を訪問したりするなどして西南の雄藩を結びつけさせたことに始まったとされています。イギリスが背後で活躍していたわけです。イギリスは当然、思惑があったわけで、幕府がフランスからの援助を受けていたことに対抗して、反幕府の勢力を支援していたわけで、その背景として英仏戦争があります。
英仏戦争は1123年のフランスの干渉から始まり、途中百年戦争や三十年戦争を挟んで1815年のナポレオン戦争の終結まで長い間戦争状態にありました。この英仏の抗争は独立前のアメリカでも行われました。1754年から1764年まで、フレンチ・インディアン戦争と呼ばれる戦争があり、それはヨーロッパでの七年戦争と同時に行われていたわけです。日本における戊辰戦争は見方によっては、英仏の代理戦争ともいえます。
フレンチ・インディアン戦争はフランスがアメリカ先住民(インディアン)と結託して、イギリスの植民地を襲ったことが原因でしたが、最終的にイギリスが勝利し、アメリカはイギリス植民地となり、そして独立戦争によって、1776年に独立国になったという歴史があります。アメリカのペリーが日本に来航したのは1853年ですから、アメリカは80年も経っていない新興国だったわけです。それで日本の内政に干渉するほどの力はなかったといえます。
戊申戦争では薩長が勝利したことで、イギリスの力が大きくなり、その後の明治政府とイギリスは強い関係ができるわけです。事実、坂本龍馬は土佐藩を脱藩した一浪人に過ぎなかったのに、大藩である薩摩や長州の間を取り持つことができたのは、イギリスの支援があったことは明白で、亀山社中という貿易商社がグラバーというイギリス武器商人と結んでいたことが背景にあります。
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