六波羅探題

正慶 2年/ 元弘 3年(1333) 倒幕に転じた足利尊氏 の攻撃により京都・ 六波羅探題 が陥落しました。六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つで、承久3年(1221)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北方と南方に設置した出先機関の名称です。探題と呼ばれた文献上の初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていたようです。探題というのは、本来は仏教上の職名ないし僧階のことで、それが転じて中世の幕府の役職名となりました。
今でも伝統仏教の天台宗では、トップである座主(ざす)は複数の探題の互選によって選ばれます。先日のローマ教皇が枢機卿によるコンクラーベで選出されるのと同じ仕組みです。これは、カトリックでも伝統仏教集団でも僧は妻帯が禁止されているため、世襲相続ができないためです。欧州でも王族は世襲ですが、カトリックでは世襲がなく、その代わりに養子のような仕組みがあり、高位の僧には養子縁組による疑似的な世襲制度が残っています。同じように日本の伝統仏教でも疑似的な世襲があり、また師弟関係は厳格で、縁の切れない親子関係のような絆が守られています。キリスト教においても、洗礼という入信の儀式において、洗礼名が与えられ、名づけ親が教父(God father)と呼ばれ、日本では元服の際の烏帽子親(えぼしおや)と似たような親子関係に似た庇護者になります。宗教としての教義はまったく違いますが、制度としての類似が見られるのは偶然ではなく、人間社会の制度の共通性といえそうです。
鎌倉幕府の探題は裁判権など重要な判定を行う職に名称を転用したものと考えられ、幕府の重職である執権と連署についで、六波羅探題が北方と南方を支配しました。そして西国に置かれた広範囲な裁判権、軍事指揮権を持つ職にも探題の名が与えられました。室町幕府では鎌倉の執権に相当する執事、管領が置かれましたが、これらは探題とは呼ばず、奥羽や西国において広範な執行権を持つ職に対して用いられていました。京の六波羅にあった旧平清盛邸の跡地を拠点にし、北条泰時・北条時房の2人が六波羅の北と南に駐留して、西国の御家人の監視と再編成および承久の乱の戦後処理を含めた朝廷の監視を行ったのが六波羅探題の始まりとされています。設置当初、幕府も六波羅探題自身も京都の治安維持は検非違使の役目であって、自らの権限の外であると考えていました。ところが承久の乱後、朝廷の軍事力を支えていた京都周辺の軍事貴族を解体した結果、検非違使や北面武士の軍事力が大幅に低下して、京都の治安が急速に悪化しました。幕府は京都の警固については朝廷および検非違使の責任であるという原則を示したのですが、朝廷の軍事力解体とその一翼を担う検非違使の強化によって京都の治安維持に当たらせるという幕府の2方針は矛盾するものでした。六波羅探題は朝廷ではなく幕府の直接指揮下にあり、京都周辺の治安維持、朝廷の監視、皇位決定の取り次ぎなどを行うことになり、それが原因で、元徳3年(1331)護良親王が挙兵。これに呼応した楠木正成の軍に六波羅軍は敗北し、滅亡への道を辿りました。
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