新田義貞と修身

正慶2年/元弘3年(1333) 新田義貞が上野国で北条氏討伐の旗揚げをしたとされています。後醍醐天皇による建武の新政樹立の立役者の一人となった人物ですが、楠木正成に比べると現在の知名度は低いかもしれません。しかし、昔の「修身」という科目では、楠木正成の「桜井の別れ」のエピソードと共に、新田義貞が鎌倉の稲村ケ崎で太刀を海に奉じて、龍神が潮を引かせた、という話が載っていました。この話は印象的なせいか、子供の心に残ったようです。
今は手話の語源として、知っている人は少ないのですが、「新しい」という手話は、この両手で太刀を奉じる姿を模倣しています。なぜ「新しい」かというと、新田義貞の「新」を表現した、ということだそうです。「おめでとう」という手話は花火が上がるように、握ったこぶしを開きながら、上に上げますが、「新しい」は太刀を投げるので、前に出すのが伝統的な形です。こうした手話語源を知っていれば、元の形が維持されやすいのですが、語源が失われると、「新しい」と「おめでとう」の手話がだんだん似てきて、現在では混乱する人がでてきています。言語と言うのは歴史と共に、変化していくので、それは自然が現象ですから、正しいとか間違っているという価値判断の問題ではありません。それよりも、この「新しい」という手話表現の語源が「修身」の教科書にあるのが本当であれば、「新しい」という手話ができたのは、戦前の修身の教科書が発行されていた時代という推定が成り立ちます。修身という科目は明治23年(1890)の教育勅語発布から、昭和20年(1945)の敗戦まで存在した、とされていますから、この50年間のどこかで、恐らく聾学校で発生したと推定できます。
手話の語源研究はほとんど進んでいませんが、手話の発生の起源の問題とも関係があり、興味深い例といえます。手話語源の多くが歌舞伎に由来するという説もあり、日本手話の起源は比較的新しそうです。新しいという意味は、聾者の存在は江戸以前に多くの文献があり、存在が知られていました。もし手話が聾者の言語、というのであれば、聾者の発生と共にあるはずなのですが、現在使われている手話の語源の多くは明治以降の発生であることを示しています。「新しい」という語は基本的な語彙とはいえ、抽象的な意味をもつ語なので、身体部位のような語彙に比べると、発生は後であることは容易に想像できます。しかし、聾者とのコミュニケーションは古くからあったと推定できるので、それは身振りであったことも容易に推定できます。実際、現在の手話でも、身体部位の多くは指差しですから、昔の手話は指差しが多かったことも想像できます。また、言葉の発声がうまくできない幼児も指差しを多く用いますし、言葉の通じない外国人とのコミュニケーションでも指差しが多用されます。これらの事実から、初期的な手話は指差しであったと推測することは間違いではないと思われます。あくまでも推論です。手話にも発達段階があり、原初的なコミュニケーションから現代のような形に変化していったと想定されます。そして学校教育が語彙発達に大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。
月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | 日 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 |
30 |