ロンドン覚書

文久2年(1862)5月9日(旧暦)ロンドン覚書という条約のようなものが締結されました。
幕末の日本は、欧米列強との外交関係を築きながらも、国内の政治的混乱や攘夷運動の高まりに直面していました。特に、1858年に締結された安政五カ国条約に基づく開港・開市の問題は、幕府にとって大きな課題でした。こうした状況の中で、幕府は開港・開市の延期を求め、1862年にイギリスとの間で「ロンドン覚書」を締結しました。
江戸・大阪の開市、新潟・兵庫の開港を約束したことで、国内の経済問題や政治的混乱により、期限内の履行が困難となり、幕府は開港・開市の延期を求めざるをえなくなり、幕府は竹内保徳を正使とする「文久遣欧使節」を派遣し、フランスやイギリスと交渉を行いました。交渉の結果、1862年6月6日、イギリスのロンドンにおいて、幕府とイギリス政府の間でロンドン覚書が締結され、①開港・開市の延期:新潟・兵庫の開港、江戸・大阪の開市を5年間延期する。②貿易の自由化:開港・開市の延期の代償として、幕府は以下の措置を実施する。③貿易品の数量・価格の制限を撤廃する。④労役者(大工、船頭、教師、人夫、従僕など)の雇い入れに関する制限を撤廃する。⑤大名が直接外国人と取引することを妨げない。⑥定められた関税以外の手数料を徴収しない。⑦開港場において外国人と取引する日本商人の身分を制限しない。⑧外国人と日本人の自由な交際を阻止しない。などの内容でした。さらに、幕府は対馬の開港を建議し、酒税の低減やガラス製品の関税引き下げ、横浜・長崎に保税倉庫を設けることを約束しました。
このロンドン覚書の締結により、日本は開港・開市の延期を認められたものの、その代償として貿易の自由化を進めることとなりました。これは、幕府にとって一時的な猶予を得ることができたものの、結果的に外国との経済的関係をより深めることにつながりました。また、イギリスの働きかけにより、他国との交渉も進み、同年10月2日にはフランスとの間で「パリ覚書」が締結され、開港・開市の延期が正式に認められることになりました。しかし、開港・開市の延期は攘夷派の不満を招き、幕府の外交政策に対する批判が強まることとなりました。特に、翌年の1863年には長州藩が外国船を砲撃する「下関戦争」が勃発し、日本国内の対外政策はさらに混迷を深めることとなったのです。
ロンドン覚書は、幕末の日本における外交政策の転換点の一つであり、開港・開市の延期を実現することで幕府の負担を軽減したといえます。しかし、その代償として貿易の自由化が進み、日本の経済構造に大きな影響を与えました。それが攘夷派の反発を招き、幕府の権威低下を加速させる要因ともなりました。こうした点を踏まえると、ロンドン覚書は幕末の外交政策において重要な役割を果たしましたが、その影響は決して一面的なものではなく、複雑な要素が絡み合っていたと言えます。1つの政策が単純に1つの結果をもたらすのではなく、後々のいろいろな問題の火種となることはよくあることで外交はとくにそれがあります。現代の日本外交はその歴史を理解しているでしょうか。
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