下関条約と台湾占領


コラム挿絵:台湾の地図イラスト

明治時代の日本にとって、日清戦争(1894〜1895)はその後の国際的地位を大きく変える契機となりました。この戦争の終結をもたらしたのが、下関条約(馬関条約)であり、その中で日本は清から台湾を獲得します。これに伴い、台湾への軍事占領が実行され、日本の植民地政策の第一歩が刻まれました。下関条約と台湾占領は、アジアにおける帝国主義的進出の象徴であり、日本近代史の転換点でもあります。
1895年4月17日、山口県下関市の春帆楼で、清国全権・李鴻章と日本側代表・伊藤博文・陸奥宗光の間で下関条約が締結されました。この条約により、清は日本に対して以下のような内容を受け入れました。①朝鮮の独立を承認、②遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲、③2億両(約3億円)の賠償金支払い、④通商条項の拡張(開港場の増加、内地通商権の拡大)とくに、台湾と澎湖諸島の割譲は、日本が初めて海外の恒久的な領土を獲得することを意味しました。このことは、日本が西欧列強にならって「帝国」としての道を歩み始めた決定的な出来事といえるでしょう。
条約の締結を受けて、日本はすぐに台湾の接収に着手します。5月には早くも日本軍が台湾に上陸しましたが、占領は予想以上に困難を極めました。というのも、台湾では清国からの割譲に反発した現地官僚や民衆、さらに中国系の移民たちが「台湾民主国」を樹立し、日本に対して武装抵抗を行ったのです。台湾民主国は短命に終わったものの、日本軍はゲリラ的な抵抗に長期間苦しめられました。山地では原住民族の激しい抵抗もあり、全島平定には数か月から数年を要しました。このようにして始まった台湾の植民地支配は、以後1945年の敗戦までおよそ50年続くことになります。台湾の占領と統治は、日本にとって初めての「外地」支配の試金石でした。総督府制度を敷き、鉄道や通信、教育制度の整備を進めた一方で、同化政策や言語統制も強化され、現地住民の文化や生活に対する圧力も強まりました。とはいえ、日本の近代国家形成における「外への拡張」は、まさにこの台湾占領に始まるのです。
一方、下関条約の結果として日本が得たもう一つの重要な地域――遼東半島は、まもなく三国干渉(ロシア・フランス・ドイツ)によって返還を余儀なくされました。これによって、日本国内では大きな屈辱感が生まれ、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」のスローガンのもと、さらなる軍備増強と対外拡張への意欲が高まります。このことは後の日露戦争や韓国併合へとつながっていくのです。つまり、下関条約は単なる戦争終結の条約ではなく、日本が「戦争によって領土を得る」という西欧型の帝国主義政策へと本格的に参入する出発点でした。その第一歩として、台湾占領と植民地化が実行されたことは、日本の近代史において重い意味を持ちます。
現在、中国が台湾を自国の領土と主張する根拠の1つが、清の時代のことです。清王朝は滅亡しており、しかも漢民族の国家ではなかったので、漢民族と主張する現在の中国は戦後に成立した国家なので、歴史的に見ればおかしなことですが、政治はいつも歴史的に正しいとはかぎらず力による支配になります。

2025年6月
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30  

コメントを残す