戊辰戦争の終結


コラム挿絵:五稜郭のイラスト

明治2年(1869)5月18日(旧暦)、箱館・五稜郭に立てこもっていた旧幕府軍が新政府軍に降伏し、戊辰戦争は実質的に終結しました。この日、最後の戦いの地となった五稜郭が開城されたことで、旧来の幕藩体制は完全に崩壊し、日本は新たな時代──明治という近代国家への道を本格的に歩み始めたのです。
戊辰戦争とは、慶応4年(1868)に鳥羽・伏見の戦いを発端として始まった明治新政府と旧幕府勢力との一連の内戦です。旧幕府側は、将軍徳川慶喜の政権返上(大政奉還)によって幕府の体制こそ消えたものの、なおも武力によって徳川家の権益を守ろうと試みました。これに対し、薩摩・長州を中心とする新政府は、天皇親政と中央集権化を推し進める中で、旧体制の残滓を一掃する必要がありました。戦いは関東、東北へと拡大し、会津戦争や北越戦争など、各地で激戦が展開されました。会津や庄内といった地域では、旧幕府を支えた東北諸藩が根強く抗戦を続け、多くの犠牲を伴いました。しかし、軍事力と物資の面で優位に立った新政府軍が次第に押し返し、旧幕府軍は後退を余儀なくされていきます。会津は今もこの歴史を大切にしています。最終的に、旧幕府軍の一部は榎本武揚の率いる艦隊と共に蝦夷地(北海道)に渡り、そこに「蝦夷共和国」を樹立します。この共和国は、民主的な憲章と選挙で選ばれた総裁(榎本)を擁する政体であり、アジア初の共和制国家とも言われていますが、その実態は旧幕府軍による最後の抵抗拠点でした。新政府はこれを黙認せず、1869年春に大規模な討伐軍を派遣します。海戦と陸戦の双方で旧幕府軍は追い詰められ、ついに5月18日、榎本武揚は降伏し、五稜郭を開城しました。これをもって、約1年半にわたる戊辰戦争は終焉を迎えたのです。
この戦争の終結は、単なる武力衝突の終わりではありませんでした。それは日本が封建制度を脱し、中央集権国家へと変貌するための大きな節目であり、同時に政治、社会、思想の転換点でもありました。武士階級は急速に解体へ向かい、新政府は士族・農民・町人といった旧来の身分制度を改めていきます。また、旧幕府軍の中心人物であった榎本武揚が、その後新政府に仕え、外務大臣や文部大臣などを歴任したことも注目すべき点です。敵味方を越えて能力を評価し、実力主義の人材登用を行った明治政府の柔軟さは、近代国家形成の一因とも言えるでしょう。
五稜郭の開城からすでに150年以上が経過しましたが、戊辰戦争が日本の近代化に果たした役割は、今も深い歴史的意味を持ち続けています。古き体制と新しき秩序との衝突の果てに、日本はひとつの時代を終え、明治という新しい幕を開けたのです。現在、五稜郭は桜の名所として観光地になっています。またこの地でなくなった幕軍の中でも、とくに土方歳三の死を悼む人は今も多く、明治時代から戦前は悪役であった新選組も戦後は英雄視する人も増えてきたため、「土方歳三の血」という名前の函館ワインも人気です。赤いワインを血に例えるのはキリスト教にもありますが、日本では珍しいといえます。新選組は政党の名前にも使われるほど、イメージが変わってきています。

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