サラエボ事件

1914年6月29日、ヨーロッパ中が不穏な空気に包まれていました。前日、すなわち6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公とその妻ゾフィーが、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで暗殺されるという衝撃的な事件が起きたからです。そして、その翌日である6月29日、事件の第一報が各国の報道機関に伝わり、外交界は一斉にその対応に追われることになります。この「サラエボ事件」は、第一次世界大戦の直接的な契機となり、人類史を大きく変えることとなりました。
暗殺事件の舞台となったサラエボは、当時オーストリア=ハンガリー帝国が占領・併合していた地域で、セルビア系住民を多く含む民族混在地域でした。皇太子夫妻はこの地で軍事演習の視察と視察行事を兼ねて公式訪問していたのですが、彼らの存在を快く思わない民族主義者たちが待ち受けていたのです。犯行に及んだのは、セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプでした。彼はパン=スラブ主義を信奉し、セルビア民族の独立と統一を望んでいました。彼に武器と支援を与えたとされる秘密結社「黒手組(ブラック・ハンド)」は、セルビア軍内部にも浸透していたとされ、事件の背後に国家的関与が疑われました。
6月28日の午前、皇太子夫妻の車列は市街を走行していました。最初に爆弾が投げつけられましたが、この攻撃は失敗に終わります。しかしその数時間後、車列が誤って通ったルートの一角に偶然いたプリンツィプが、近距離から二発の銃弾を放ち、皇太子と妃を即死させました。この報が各国に届いたのが6月29日。ヨーロッパ諸国の新聞は一斉に号外を発し、各国政府は対応に追われました。帝国の内部では報復を求める声が高まり、オーストリア=ハンガリー政府はセルビア政府に対し、厳しい最後通牒を準備することになります。サラエボ事件そのものは局地的なテロ事件でしたが、その背後にあった民族対立、同盟関係、軍拡競争がこの事件を一気に国際的な危機へと押し上げました。オーストリア=ハンガリー帝国は、背後にあるセルビアの責任を問い、ドイツ帝国の支持を得て、7月23日に最後通牒を送付します。これに対し、スラブ民族の擁護を掲げるロシアがセルビアを支持し、フランス、イギリスも巻き込んで「同盟」と「協商」の対立構造が一気に戦争へと転化していきました。
事件からちょうど1か月後の1914年7月28日、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告。これを皮切りに第一次世界大戦が勃発するのです。サラエボ事件は、たった一人の青年による行動が、ヨーロッパ全体、さらには世界中を巻き込む戦争へとつながった例です。背景としては、長年蓄積された対立や不信、そして各国の軍事・外交戦略があったからこそ、この一発の銃声が連鎖反応を引き起こしたのです。今日においても、突発的な事件が国際情勢を一変させることは少なくありません。サラエボ事件は、私たちに「一つの事件がどれほどの影響をもたらすか」「外交的な緊張の管理がいかに重要か」という教訓を与えてくれます。今起きている戦争も多くは偶発的な事件がきっかけになっています。
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