帝政ロシアの終焉


ニコライ2世凱旋門の写真

1918年7月17日未明、ロシア帝国の最後の皇帝ニコライ2世とその家族が、ウラル山脈の町エカテリンブルクにあるイパチェフ館の地下室で、革命派によって銃殺されました。この瞬間、約300年続いたロマノフ王朝は、静かに、しかし衝撃的な終幕を迎えたのです。

ロマノフ王朝は、1613年に初代皇帝ミハイル・ロマノフが即位して以来、ロシア帝国の支配者として君臨しました。ピョートル大帝やエカチェリーナ2世といった改革者たちを輩出し、広大な領土を治めながら、帝政の繁栄と権威を築き上げました。しかし20世紀初頭、王朝は大きな転機を迎えます。急速な近代化と格差拡大、第一次世界大戦による国力の疲弊、さらに政治改革の停滞が重なり、民衆の不満は臨界点に達します。1917年、ロシア二月革命によってニコライ2世は退位を余儀なくされ、300年の王朝の歴史は実質的に終わりを告げました。

退位後のニコライ2世とその家族は、一時は比較的穏やかな監禁生活を送っていましたが、ボリシェヴィキ政権の不安定化と白軍(反革命勢力)の接近により、状況は急変します。レーニン率いるソヴィエト政権は、王政復古の象徴となりうるロマノフ家の処遇を「国家的リスク」とみなします。そして1918年7月17日、革命派は突如として皇帝一家を地下室に呼び出し、執行命令の名のもとに銃殺を行いました。ニコライ2世、皇后アレクサンドラ、そしてその子どもたち5人――アレクセイ、オリガ、タチアナ、マリア、アナスタシア。看護師や召使いを含め、11人が殺害されました。銃撃は混乱を極め、即死しなかった者を銃剣で刺すなど、惨状は想像を絶するものでした。この事件は、王政に対する民衆の怒りと、革命の過激性が結びついた象徴的な悲劇として、後世に語り継がれています。

ロマノフ家の処刑は、国内外に衝撃を与えました。当初ソ連はこの事件を公にせず、詳細は数十年にわたって封印されていました。だが、1991年のソ連崩壊後に発掘とDNA鑑定が行われ、遺体の身元が確認されることで、歴史の闇に包まれていた事実が明るみに出たのです。1998年、ロマノフ家の遺骨は正式にサンクトペテルブルクのペトロパヴロフスク大聖堂に埋葬され、国家としての償いの儀式が執り行われました。また、ロシア正教会は彼らを「受難者」として列聖し、殉教者として扱うようになりました。

特に、皇太子アレクセイと末娘アナスタシアに関しては、生存説が長くささやかれ、多くの偽者が現れるなど、歴史と伝説の境界が混ざり合った逸話も残っています。ロマノフ家の最期は、専制政治の終焉を象徴すると同時に、革命の名のもとに人道を踏みにじった悲劇とも言えるでしょう。民衆が求めた自由と平等の理想が、恐怖と暴力を通じて実現されようとした事実は、あらゆる社会運動や政権交代の陰に潜む危険性を私たちに教えてくれます。また、ロシアという国家の精神的ルーツとしてのロマノフ家の存在は、現代においても根強く残っています。ソ連時代の無神論的体制から脱却した今、ロマノフ家は再び「国家の正統性」と「アイデンティティ」を象徴する存在として語られつつあります。

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