ナポレオンの終焉

1815年8月8日、ナポレオン・ボナパルトはイギリスによって大西洋の孤島、セントヘレナ島へと送られました。これは単なる流刑ではなく、ヨーロッパを揺るがした英雄の最終章であり、帝国の夢の終焉を象徴する歴史的事件でした。
日本では多少誤解が広がっていますが、ナポレオンは名であり、姓はボナパルトです。1804年に皇帝となって以降、彼は「Napoléon Ier(ナポレオン1世)」と名乗りました。王族や皇帝は一般的に姓を名乗らず、名だけで呼ばれることが多いため、「ナポレオン」と呼ばれるようになりました(例:ルイ14世も姓ではなく「ルイ」として知られています)。ナポレオンは、フランス革命の混乱から頭角を現し、軍事的天才として急速に台頭しました。イタリア遠征、エジプト遠征、アウステルリッツの勝利などを経て、1804年には自ら皇帝ナポレオン1世を名乗り、革命の理念をヨーロッパ中に拡散させる一方で、絶対権力者として君臨しました。彼の支配は「自由・平等・博愛」の理念とは裏腹に、征服と支配の色を強めていきます。諸外国、とくにイギリス、ロシア、オーストリア、プロイセンなどはナポレオンの脅威に対抗するため連合軍を結成。ナポレオンは幾度もの勝利と敗北を繰り返した末、1814年にエルバ島へ追放されます。しかし、それで終わりではありませんでした。1815年3月、エルバ島を脱出したナポレオンは再びフランスに帰還。「百日天下」と呼ばれる短期間で再度の政権掌握を果たします。国民の熱狂的な支持を受け、再起を図った彼は、6月、ワーテルローの戦いで連合軍と激突しました。結果は、ナポレオンの決定的敗北。この戦いの後、彼の復活は許されず、今度こそ完全に「世界の舞台からの退場」が求められました。
そしてイギリスは、ヨーロッパから遠く離れ、逃走の可能性がない絶海の孤島――セントヘレナ島を流刑地に選びます。この島は、アフリカ大陸の西約2,000キロに浮かぶ火山島で、当時イギリス領でした。面積はわずか120平方キロメートル程度。ナポレオンはここで軍事行動はもちろん、通信や密使との接触すらままならぬ日々を送りました。監視の目は厳しく、海岸沿いにはイギリス海軍が巡回し、島外とのあらゆる接触は制限されました。ナポレオンの流刑生活は約6年に及びます。島の気候は湿気が強く、彼の体調は次第に悪化しました。政治活動の可能性を断たれた彼は、記録や回想録を綴ることに時間を費やしました。このときに書かれた『セントヘレナ回想録』は、後に英雄像を再構築する素材としても用いられ、ナポレオン神話の形成に大きな役割を果たします。
1821年5月5日、ナポレオンはセントヘレナ島で死去。享年51歳。その死因は長らく胃がんとされていましたが、毒殺説なども根強く残っています。彼の遺体は1840年にパリへと移送され、現在はアンヴァリッド廟に葬られています。ナポレオンのセントヘレナ流刑は、帝国主義の理想と限界、そして個人のカリスマによる政治が持つ強大さと危うさを象徴しています。独裁者の最後というのは例外なく寂しい末期です。盛者必衰は「平家物語」の言葉ですが、正鵠を得ています。
月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | 日 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | ||||
4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |