世直し一揆



天保7年(1836)長月二十一日、三河国加茂郡において日本初の世直しを求めた一揆が発生しました。加茂一揆です。一揆は英語にするとriotですが、riotは今では暴動、騒擾(そうじょう)、騒動などと訳されて何かいけないもののようなニュアンスになってしまいますが、一揆というのは原義が「心を1つにする」という意味で揆とは手段のことです。日本の一揆は西洋のように体制変化を求めるものではなく、抑圧や不満に対する抵抗や行動に起こすことで、農民の場合は種まきをしない、農作業を数か月遅らせるなど一部をボイコットすること、不満事項の改変を求めて陳情を訴える行為(直訴)をすることや土地を離れて逃げること(逃散ちょうさん)をいいます。すでに南北朝時代、室町時代から荘園の農民による一揆があり、酒屋や土倉といった商人が金融をしており、この借金の棒引きを求めて徳政令を要求する一揆も行われていました。いわゆる土一揆です。当時の農民は土民と呼ばれていたので土民による一揆という意味です。今に置き換えるなら、ローン返済ができなくなり銀行を襲って書類を奪うような感覚でしょう。後の百姓一揆のように何万人といった百姓が集結する大規模なものもありましたが、放火や略奪・殺傷などはなく農民が武装することはなく、鎌や鍬などの農具を持ち、莚(むしろ)旗を揚げるなどの強訴でした。このため対応する武士側も強硬な対応は取れず、一揆の発生は幕府から統治の失敗と見られることもあり領主の処罰や改易の恐れもありました。このため領主側も対応には穏便な対応を取らざるを得えず合議による解決を図ることになりました。今ならデモです。
加茂一揆は暴風雨による凶作や米価高騰で、綿花などの商品作物栽培や馬稼ぎに従事していて,買米に頼ることが多かった加茂郡一帯の貧農層は9月21日旗本領松平郷滝脇(たきわき)村(現愛知県豊田市)石御堂(いしみどう)に集結して蜂起,同村庄屋宅を襲撃,その後騒動は挙母(ころも)藩など周辺諸藩領や幕府領を含む加茂郡一円および額田郡の一部に拡大,足助(あすけ)(愛知県豊田市足助町)ほかの酒屋・穀屋・質屋などを打毀,同月25日に鎮圧されました。この間の一揆参加者は1万人を超えると推定され、米価値下げや頼母子講の休会などの要求を一時的にではあるが勝ち取ったそうです。一揆勢は自らの行動を世直様の計らいとしており,幕末・維新期の世直しに通じることから、初の世直し一揆とされているわけです。世直様とは1784年に旗本佐野善左衛門政言が田沼意知(田沼意次の子)に斬りつけ死に至らせると田沼政治に不満をもっていた民衆は切腹した政言の墓に〈世直し大明神〉の幟数十本を立てたことを起源としています。以後、一揆は世直し大明神の計らいとする日本人独特の感性の発現であり文化ともいえます。

一揆

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