師走晦日

師走三十日(しわすみそか)は、暦の上ではただの年末の一日ですが、生活感覚の上ではきわめて重要な日です。翌日の大晦日ほどの華やかさはなく、元日の祝い気分にはもちろん届きません。しかし、だからこそこの日は「年の重み」がもっとも濃く漂う一日でもあります。言ってみれば、一年がまだ完全には終わっていない状態で、しかしもう後戻りはできない、そんな宙づりのような気分の時間です。「あと1日しかない」という焦りの気分にもなります。
かつての日本では、年越しは一夜の出来事ではありませんでした。正月を迎えるための準備は段階的に進み、二十九日を避け、三十日を実質的な最終調整日とする地域も少なくありませんでした。二十九日は「二重苦」を連想させるとして忌まれ、三十一日は神事や年越しそのものに充てられる。すると、現実的な作業を引き受けるのが三十日だったのです。
この日に行われていたのは、仕上げの掃除、正月道具の最終確認、食材の下ごしらえでした。餅つきが三十日に行われる地域が多かったのも、その名残です。餅は神に供え、人が食べる「境界の食べ物」です。三十日に搗くことで、餅はまだ「人の側」にあり、大晦日から元日にかけて、ゆっくりと神事の領域へ移行していく。その時間差が、年越しに厚みを与えていました。現代では、餅にそういう思いをもつ人は稀有ですが、餅の神性を考えるのもよいですね。
三十日はまた、帳尻合わせの日でもあります。商家では掛け取りを整理し、家では借り物を返し、言い残した挨拶を済ませる。現代風に言えば「未処理タスクの解消日」です。年内に済ませる、という感覚は、この日に最高潮に達します。ここで片づけきれなかったものは、大晦日にはもう持ち込めない。その切迫感が、三十日を独特の緊張感で満たしてきました。
心理的にも三十日は興味深い日です。大晦日ほど感傷に浸る余裕はなく、元日ほど前向きでもない。ただ、否応なく「終わる年」と向き合わされる。人はこの日に、今年やり残したことを具体的な形で思い出します。掃除しきれなかった棚、会えなかった人、片づかなかった気持ち。それらは反省というより、「持ち越し可能かどうか」を見極める材料として浮かび上がってくるのです。
つまり師走三十日は、儀礼の前段階であり、現実の最終関門です。華やかな鐘の音も、祝いの酒もまだない。ただ、静かな焦りと、手を動かす実感だけがある。この一日をどう過ごすかで、年越しの質は大きく変わります。大晦日にはばたばたして片付けをするのは厳禁です。晦日のうちにできるだけのことをして、大晦日は静かに新年を迎える精神的な余裕が大切です。こういう最後の時の迎え方は何事にも通じるものですから、毎年末にそういう習慣があるとよいものです。
大晦日が「区切りの象徴」だとすれば、三十日は「区切りを成立させる日」です。何かを終えるためには、その前に必ず片づけの時間が必要です。師走三十日は、その当たり前で、しかし忘れがちな事実を、毎年きちんと思い出させてくれる一日なのです。
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