手話の雑学103


手話で話す女性のイラスト

そこでカッシーラの象徴形式論と聾文化の関係をみてみましょう。

2.カッシーラの象徴形式論と聾文化

カッシーラは神話・宗教・科学・言語など、多様な文化領域を「象徴形式」として捉えました。彼の枠組みを借りれば、手話は視覚身体的モードに基づく独立した象徴形式的言語であり、同時に聾文化の価値体系・認知様式を支える文化的装置として理解できるとします。すなわち手話は、コミュニケーション手段を超えて、視覚中心性(visual centrism)に基づく世界観を構成する象徴形式であり、その総体は聾文化研究(Deaf Studies)が描き出してきた文化論的枠組みと整合することになります。カッシーラの出発点は、人間を「象徴的動物(animal symbolicum)」と捉えることでした。人間は世界をそのまま反映する存在ではなく、必ず象徴形式(symbolische Formen)を通して世界を構成するのです。ここでいう象徴形式には、言語だけでなく、神話・宗教・芸術・科学などが含まれます。重要なのは、言語がその一要素にすぎないという点です。

この枠組みに立つと、手話はきわめて自然に位置づけられます。手話は「音声を欠いた代替言語」ではなく、視覚‐身体的な象徴形式として世界を構成する言語だ、と言えるからです。カッシーラにとって言語とは、「音を出す仕組み」ではありません。言語とは、世界を分節し、意味づけ、関係づける象徴体系です。つまり、何が「物」として切り出されるのか、どの関係が重要として把握されるのか、行為や出来事がどう構造化されるのか、これらを決める認識の形式が言語です。この定義を採用すると、手話は完全に言語です。しかも興味深いことに、手話は象徴形式の「可視性」をむしろ露わにするといえるのです。こう解釈していくと、デカルトとカッシーラは哲学史的には対立する立場ですが、言語を音声言語に限定していない、という点では共通であった、ということがいえます。さらに重要なのは、カッシーラが象徴=恣意的記号とは考えていなかった点です。ここがソシュールとも違い、また現代言語学がソシュールを基盤としてきたことによって、手話の言語としての扱いに難儀している点でもあります。カッシーラにとって象徴は、世界との関係を切り結ぶ形式であり、感覚的基盤を完全には捨てません。この点で、手話における図像性は、例外としてではなく原理的に説明可能です。手話の「形が意味に似ている」現象は、「未発達だから」でも「ジェスチャーに近いから」でもなく、象徴形式が身体・空間と強く結びついた結果だと理解できます。彼の理論は、「言語の素材が何か」を問わない。問うのは、「その言語がどのような形式で世界を意味づけているか」です。音声言語中心の言語観こそが、人間の象徴能力の一形態しか見ていなかったのだ、と。カッシーラの哲学は、結果的にこう言っているように読めます。言語は口の仕事ではない。象徴によって世界を生きる、人間の仕事である。そして手話は、その命題を、身体ごと証明してしまう存在です。

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