手話の雑学126 インドの手話事情


手話で話す女性のイラスト

ヒンドゥー教と手話の関係は、制度的には薄く、思想的・身体文化的には驚くほど深い、という少しねじれた構図をしています。一直線ではなく、地下水脈のようにつながっている感じです。

まず現実面では、インドには Indian Sign Language(ISL)があり、ろう学校や都市部を中心に使われています。ただし歴史的に、ヒンドゥー教が「手話を言語として神学的に位置づけてきた」わけではありません。むしろ長く支配的だったのは、「声をもたない=前世のカルマの結果」という身体観で、これは聴覚障害者に不利に働いてきました。読み書きや口話教育が優先され、手話は補助手段として扱われがちだったのが実情です。ところが、ヒンドゥー教世界には、ムドラー(mudrā)と呼ばれる膨大な手の形・身振りの体系があります。舞踊・演劇・儀礼・瞑想で用いられ、意味を担う視覚的・身体的記号です。古典芸能論書『ナーティヤ・シャーストラ』では、手の形が「見る者に意味を“理解させる”」ことが明確に意識されています。つまり、音声に依存しない、視覚と身体で意味を伝える、規則化された手の形がある、この三点だけ見れば、手話と言語学的に近縁な発想が、すでに宗教文化の中に存在していたわけです。ただし重要な違いがあります。ムドラーは「神や宇宙原理を象徴する身振り」であり、「演者から観客への一方向的意味伝達」であるのに対し、手話は日常生活を語る相互行為として展開し、文法をもつ自然言語です。

つまりヒンドゥー教文化は、「身体が意味を語る」ことは深く理解していたが、それを社会的言語としては承認しきれなかった、という少し惜しい位置に立っています。それでも思想的な相性は悪くありません。ヒンドゥー教では、究極的真理(ブラフマン)は言語以前・音声以前のものとされます。マントラ(聖音)は重要ですが、同時に「言葉は真理そのものではない」という発想が強いのです。ここでは手話は「欠如の代替」ではなく、音声と並ぶ、もう一つの表現経路として再解釈できる余地があります。近年のインドでは、ろう者運動と人権思想の影響で、ISLを独立した言語として認めよう、障害をカルマで説明するだけでは不十分だ、という流れが強まっています。興味深いのは、ムドラーや舞踊文化を背景に、視覚言語への文化的抵抗が比較的少ない点です。「手で語る」こと自体は、宗教的にも文化的にも、もともと“あり”だったのです。

ヒンドゥー教と手話の関係は「神学は追いついていないが、身体文化は準備万端だった。」といえそうです。手話はこの文化圏において、異物ではなく、眠っていた可能性の目覚めとして理解できる存在です。

音声中心主義の宗教が多い中で、ヒンドゥー教世界は実はかなり「視覚言語フレンドリー」な土壌を持っていました。そこに言語学と人権思想が合流したとき、手話は単なる教育手段ではなく、宇宙を語る身体の一形式として再評価されつつあります。この流れは日本の手話観とも親和性があるようにも思われます。

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