手話研究の星7 リデル(Scott Liddel)


手話で話す女性のイラスト

同じハウスの1階と2階に研究室があったコーネットとストーキーとの対話を終え、心の深い部分に重いものが残ったのを覚えています。そして気分を切り替えて、翌日、言語学部に出向き、リデルとジョンソンと対談しました。ジョンソンは事務に忙しいということで挨拶のみで、リデルとは長く対談しました。彼は数学者から転身した人で、見るからに頭のよさそうで、快活な印象でした。会うやいなや、「今井先生を知っているか」と聞かれました。当初、面食らいましたが、音声学者の今井邦彦先生のことでした。今井先生には大学院生時代に東京都立大学まで出向いていろいろ教えていただき、お宅にもお邪魔したことがあるので、よく知っていました。

スコットと今井先生との出会いは今井先生のアメリカ留学時代のことで、今井先生から将棋を教わり、今も将棋を楽しんでいる、という話でした。こうしたとっかかりもあったことで、すぐに打ち解け、手話学の話になりました。彼は当時、アメリカ手話文法の本を出したばかりで、これまでの手話学は手話の音声的記述や語順の話ばかりで、言語として重要な文法研究ができていないことを批判していました。当時の手話文法研究は、生成文法の枠組みでの研究ばかりで、なかなかうまくいっていなかったのです。

彼は手話の文法を示す標識(文法標識)は表情にある、という説を提唱し、疑問、否定などの表情を指摘しました。それまで表情は感情表現にすぎないと考えられていたので、手話学界に衝撃を与えました。今日でも「手話の文法は表情だ」という主張が散見されますが、これは過剰一般化で、「文法の一部が表情で表現される」というのが正しいです。日本語でも助詞が文法を表す標識ですが、すべての文法が助詞で表現されるわけではなく、用言の活用や助動詞にも多くが表現されます。

生成文法理論では、そうした表層的な現象ではなく、深層構造にこそ文法がある、という思想ですから、手話文法の深層構造を探ることに集中することになります。しかし表層構造が不明のまま深層構造の解明などできるはずがありません。そのため手話文法はなかなか解明されないままだったのを、リデルが1つの解決の糸口を見出したわけです。リデルは表情が文法標識であるだけでなく、「場の理論」のようなものを想定しており、当時はまだ研究途上ということでしたが、あらましを説明してくれました。場の理論は、今日では量子理論と融合していて重要視されていますが、当時のリデルがこの物理理論をどこまで理解していたかは不明で、それを言語に応用するには至っていないと思われました。もっともこちらも場の理論を理解していなかったので、私が分からなかっただけのことかもしれません。彼の言う場とはspaceだけのことだったのかもしれません。その後、彼は文法論よりも音韻論、とくに「手話音声学」の方に傾倒していきました。言語学者としては当然の方向ともいえます。まずは基礎である音韻論を固めることが、言語学の発達の歴史を見れば必然的な方向です。同じことは私の手話学にも言え、まずは日本手話の表記法開発から始めることになりました。

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