崇峻天皇暗殺
推古元年霜月三日、崇峻天皇は蘇我馬子によって暗殺されました。実際に手を下したのは東漢 駒(やまとのあや の こま)です。日本の歴史上、天皇が暗殺されたのはこの事件だけです。事件は用明天皇2年(587)に用明天皇が崩御すると大臣であった蘇我馬子は大連の物部守屋を攻め滅ぼし朝廷の実権を握って崇峻天皇を擁立しました。やがて崇峻天皇と馬子は対立関係になり、馬子に命ぜられた駒は、崇峻天皇5年(592)崇峻天皇を暗殺しました。その後、駒は馬子の娘である河上娘(崇峻天皇の嬪)を奪って自らの妻としますが、河上娘を穢されたことを知った馬子に殺害されてしまいます。一説には崇峻天皇暗殺の口封じであったともいわれています。
崇峻天皇は欽明天皇の第12皇子で、異母兄弟は敏達天皇(第30代)、用明天皇(第31代)に次いで第32代天皇になりますが、暗殺により姉の推古天皇が第33代となります。崇峻天皇は蘇我馬子によって推薦され即位したのですが、有力豪族の一方である大連の物部守屋は、同母兄の穴穂部皇子を即位させようとします。しかし穴穂部皇子は蘇我馬子によって殺害されてしまいました。崇峻天皇は倉梯(現在の桜井市)という山の中に宮を建て、蘇我氏とも距離をおきました。蘇我馬子が権力を奮う一方で、天皇の権力基盤は弱く、后妃問題や仏教による宗教政策、飛鳥寺の建立、東山道・東海道・北陸道に使者を派遣して蝦夷国境、海浜国境、越国境を視察させた地方政策、任那復興軍の派遣という外交政策など、政策を巡る政権内の対立の中で、権力者によって暗殺されるという結果になってしまいました。後に起こる将軍暗殺や下剋上、お家騒動などと同様な騒動であったといえます。
蘇我馬子は物部氏を滅ぼして、皇太后であった炊屋姫を即位させ、初の女帝である推古天皇を推したてました。そして厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ摂政となりました。馬子は聖徳太子と合議して政治をし、仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を進め、遣隋使を派遣して隋の社会制度や学問を輸入していきます。推古天皇4年(596)には蘇我氏の氏寺である飛鳥寺を建立しました。馬子は推古30年(622)に聖徳太子が死去した後も権力の座にあり、推古天皇とも領地争いをするほどでしたが、推古34年に死去しました。
有名な憲法十七条や冠位十二階などは歴史の時間に聖徳太子の業績として習いますが、本当は太子一人の力ではなく、背後に蘇我馬子の力があったわけです。無論、太子の力量に追うところが多いのですが、あまりに伝説化されているのは、馬子が天皇暗殺の張本人であり、皇室を操ったということが戦前の皇国史観により悪人扱いされたことも否めないと思われます。
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