日本史と世界史で読み解く 北米建国物語 第4回(続) 鎖国の日本、開拓の北米

十三夜の月のイラスト

― 海を管理した日本と、川をたどって内陸へ進んだヨーロッパ人 ―

・なぜ幕府は海を管理したのか

その背景には、日本独特の地理的条件があります。日本は島国です。外国勢力が海から侵入してくる可能性がある一方、海によって国内を守ることもできます。幕府は、長崎、対馬、薩摩、松前など、海外と接する窓口を限定することで、外国との情報や貿易をコントロールしました。これは「世界から離れる」というより、「世界との接点を限定し、管理する」という政策でした。そして、この政策は意外な結果を生みます。

海外から完全に孤立しなかったため、日本はオランダや中国を通じて、ヨーロッパの科学や医学、天文学、地理学などの情報を取り入れることができました。これが後の「蘭学」につながります。

・一方、北米では「海から川へ」

同じ17世紀、北米ではヨーロッパ人の活動範囲が広がっていました。しかし、北米の内陸部へ進むのは簡単ではありません。巨大な森林。険しい山脈。広大な湿地。そしてヨーロッパ人には未知の自然環境。ところが、北米にはヨーロッパ人にとって非常に便利な交通網がありました。それが、川と湖です。セントローレンス川。五大湖。オハイオ川。ミシシッピ川。これらを利用すれば、カヌーで長距離を移動することができます。しかも、この水路を最もよく知っていたのは先住民族でした。ヨーロッパ人は、彼らの知識を学びながら内陸へ進んでいきました。

・フランス人は「川の帝国」を築いた

フランス人の北米進出を理解するには、川を見ると分かりやすくなります。1608年、シャンプランがケベックを建設しました。そこからセントローレンス川を利用して内陸へ進みます。

五大湖へ。さらに西へ。そして17世紀後半には、ミシシッピ川流域へ到達します。

1673年、宣教師ジャック・マルケットと探検家ルイ・ジョリエは、五大湖からミシシッピ川へ進み、その流路を調査しました。1682年にはロベール・ド・ラ・サールがミシシッピ川を河口まで下ります。そしてこの巨大な流域をフランス国王ルイ14世に献上し、「ルイジアナ」と名付けました。つまりフランスは、セントローレンス川 → 五大湖 → ミシシッピ川 → メキシコ湾という巨大な水路ネットワークを利用して北米内陸へ進出したのです。

・イギリス人は大西洋岸から人口を増やした

フランス人と比べると、イギリス人の植民地拡大は少し違っていました。イギリスの植民地では、ヨーロッパから大量の移民がやって来ます。ジェームズタウン。プリマス。マサチューセッツ。ペンシルベニア。ニューヨーク。バージニア。こうした植民地では、農地を開き、町を建設し、家族単位で定住する人々が増えていきました。そのためイギリス領北米では、時間が経つにつれて人口が急速に増えていきます。フランスが「広い領域を少ない人口で結ぶ」傾向を持ったのに対し、イギリスは「沿岸部に人口を集中させ、そこから周辺へ広げる」傾向を持っていたのです。この違いは、後の英仏対立にも大きく関係します。

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