日本史と世界史で読み解く 北米建国物語 第4回(続々) 鎖国の日本、開拓の北米

十三夜の月のイラスト

― 海を管理した日本と、川をたどって内陸へ進んだヨーロッパ人 ―

・日本の「道」と北米の「水路」

ここで、交通という視点から日本と北米を比べてみましょう。江戸時代の日本では、街道が整備されました。東海道。中山道。甲州街道。日光街道。奥州街道。これらの道路を利用して、人や物、情報が全国を移動しました。江戸を中心とした交通網は、幕府による統治にも役立ちました。一方、北米では川と湖が交通網の中心でした。セントローレンス川から五大湖へ。五大湖から内陸河川へ。そしてミシシッピ川へ。

日本では、「道」が国家を結んだ。北米では、「水路」が大陸を結んだ。この違いは、両地域の地理的条件を象徴しています。

・先住民族の存在を忘れてはいけない

ここで北米史を考える上で、非常に重要な点があります。
「フランス人が北米を開拓した」「イギリス人が北米を開拓した」という表現は便利ですが、厳密には正確ではありません。ヨーロッパ人が到着する前から、北米には多数の先住民族が暮らしていました。イロコイ連邦。ヒューロン族。アルゴンキン系諸民族。オジブワ族。イリノイ族。ミシシッピ川流域の諸民族。そして数え切れないほどの地域社会。彼らは土地を耕し、狩猟を行い、交易し、戦争をし、外交を行っていました。ヨーロッパ人が北米へ入っていく際、彼らの知識や交易ネットワークを利用することなしには、内陸探検はほとんど不可能でした。北米の「開拓」は、ヨーロッパ人だけによって行われたものではないのです。

・日本にも「開拓」はあった

一方、日本が「閉じていた」というのも正確ではありません。江戸時代、日本国内では大規模な開発が進みました。新田開発。河川改修。干拓。街道整備。鉱山開発。蝦夷地への進出。特に江戸時代には、農地を増やすための新田開発が盛んになりました。つまり、日本は海外への拡大を抑える一方で、国内の開発には非常に積極的だったのです。これは重要な違いです。日本は「成長を止めた」のではありません。むしろ、海外への拡大より、国内の開発と統治に力を集中したと見ることができます。

・江戸時代の日本は「情報」を集めていた

さらに興味深いのは、日本が海外情報を積極的に収集していたことです。長崎に来航したオランダ船からは、ヨーロッパの世界情勢が伝えられました。オランダ語の書物から医学や天文学、地理学などの知識が入ってきます。そして18世紀になると、こうした知識を研究する人々が増えていきます。杉田玄白。前野良沢。大槻玄沢。伊能忠敬。こうした人物たちが、日本の知識体系を大きく変えていきました。特に伊能忠敬による日本全国の測量は、江戸時代の日本人が持っていた科学的・技術的能力を示す代表例です。

・そして北米では「地図」が作られていく

北米でも同じように、探検家たちは地図を作りました。シャンプランは五大湖周辺を調査し、地図を作成しました。マルケットとジョリエはミシシッピ川の情報を記録しました。ラ・サールは巨大な流域をフランスの勢力圏として地図上に描きました。後にはルイス・クラーク探検隊がロッキー山脈を越え、太平洋岸まで到達します。つまり、日本では伊能忠敬が日本列島を測量し、北米では探検家たちが巨大な大陸を測量していった、という興味深い比較ができます。ただし、目的は大きく違いました。伊能忠敬の測量は、日本国内の地理を正確に把握することが大きな目的でした。北米の探検地図には、交易、軍事、植民地拡大という目的が強くありました。同じ「地図」でも、その背後にある国家の目的が違っていたのです。

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