源義経



「鎌倉殿の13人」では源義経のイメージがすっかり変わりましたね。しかし元の義経像は歌舞伎の「義経千本桜」が作り出したものですから、フィクションが混じった演出だったのです。どちらも作品で、元ネタがあります。歌舞伎の方は「義経記」という軍記物ですが、これは室町時代初期に成立したとされている作者不明の作品です。どうやらこれにも元があって平家物語を脚色したという説や地方のいろいろな伝説を書き加えたという説もあるそうです。この歌舞伎の初演は延享年(1747)霜月十六日、大坂竹本座でした。新暦に換算すると12月9日です。正式な演目は「大物船矢倉/吉野花矢倉」(だいもつのふなやぐら/よしののはなやぐら)の角書きになっています。題名からすると義経の活躍のような印象を受けますが、義経が頼朝との仲が悪くなって都落ちをしたのをきっかけに、実は生き延びていた平家の武将たちとそれに巻き込まれた者たちの悲劇を描いています。

義経には伝説が多いことでも知られ、たとえば北海道には義経神社が存在します。社伝によれば、義経一行は蝦夷地の白神(現在の福島町)に渡り、西海岸を北上して、日高ピラトリ(現在の平取町)のアイヌ集落に落ち着き、そこで農耕、舟の製作法、機織りなどを教え、アイヌの民から「ハンガンカムイ」(判官神)と慕われたということになっています。寛政十年(1798)蝦夷地に来た近藤重蔵がアイヌが崇敬するオキクルという英雄を源義経と同一視し、仏師に作らせた源義経の像を与えて祀らせたのが始まりとされています(wikipedia)。また義経は大陸に渡りジンギスカンになったという説まで出てきました。大正13年に発行された小谷部全一郎の「成吉思汗ハ源義経也」が元のようです。当然ですがフィクションです。

「鎌倉殿の13人」の脚本は三谷幸喜で、元を「吾妻鏡」を中心にしているとみられています。この本は鎌倉期に成立した歴史書であり、初代将軍源頼朝から第六代将軍宗像親王まで6代の将軍記という構成になっています。編纂者は幕府中枢の複数の者と見られているそうで、後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われています。しかし編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であり、編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることから北条家に有利な形になっている可能性はあります。「鎌倉殿の13人」の主人公は北条義時ですから、吾妻鏡の視点は合っていることになります。なんとなく悪女扱いになってきた尼将軍北条政子もドラマでは違った人物に描かれていて、新鮮な感じを与えています。

義経

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