静の舞と霜月騒動



今年の12月10日は旧暦霜月十日です。文治元年(1185) 源義経は吉野山中で愛妾の静御前と別れるのですが、その静は京へ戻る途中、従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡されてしまいました。翌年母の磯禅師とともに鎌倉に送られ、頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられました。静は「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな(倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)」「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき(吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい)と義経を慕う歌を謡い、頼朝を激怒させました。妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けたとされています。「鎌倉殿の13人」では義経がこっそり静の舞を見たという演出になっていますが、史実とは違うようです。この舞は今も鎌倉八幡宮で舞われます。

百年後の同じ日に弘安八年(1285) 霜月騒動が起こりました。八代執権北条時宗の死後、九代執権北条貞時の時代に、有力御家人の安達泰盛と、内管領平頼綱の対立が激化し、頼綱方の先制攻撃を受けた泰盛とその一族が滅ぼされてしまいました。源頼朝没後に繰り返された北条氏と有力御家人との間の最後の抗争であり、この騒動の結果、幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅し、平頼綱率いる北条得宗家の被官(御内人)勢力の覇権が確立しました。幕府は得宗を頂点に大仏流、名越流を中心に北条一族の支配となり、旧来の御家人の姿は無くなりました。京では泰盛と協調して弘安徳政を行っていた亀山上皇の院政も停止され、持明院統伏見天皇が即位しました。

しかし権勢を誇った頼綱も8年後の平禅門の乱で滅亡することになり、安達泰盛の弟の子孫(安達氏)及び頼綱の弟の子孫(長崎氏)は再び取り立てられて両家間で婚姻関係を結ぶまでになりました。その後、元弘三年(1333)の東勝寺合戦において北条得宗家は滅亡し両家とも得宗家と運命をともにして、鎌倉時代が終焉します。東勝寺合戦は後醍醐天皇による倒幕運動である元弘の乱の最後の戦いです。

「鎌倉殿の13人」では恐らく(コラムを書いた時点では結末が不明)ここまではやらないでしょうから、その後の鎌倉幕府の歴史を知っておくのもよいと思います。鎌倉時代は戦乱に明け暮れた時代で、新宗教の勃興にはそういう背景があったからです。

静御前

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