事実、現実、真実(VRの続編)



あなたは事実と現実と真実の違いを説明できますか?できる方は哲学に詳しい方です。日本人の多くは深く考えずにどれも「本当」として理解していると思います。曖昧なままですね。これらの単語には共通点があります。2字漢語であること、後ろが実になっていることです。何か原因があると思いませんか?そこが理解の出発点です。

まずどれも訳語です。今は日本語の中に入っていますが、元は外国語だったわけです。英語ではそれぞれをfact, reality, truthといいます。幕末から明治にかけて多くの外来語が入ってきましたが、当時は漢語の素養のある人が知識人でしたから、漢語による造語で訳語を作成しました。有名なのは福沢諭吉で、今では完全に日本語化した語彙がたくさんあります。自由、社会、会社、資本などです。訳語でも簿記がbook keepingを意訳しただけでなく音もそっくりなのは芸術的でもあります。つまり当時の文明開化は蒸気機関や鉄道などの物だけでなく、訳語を通じて概念の輸入も行われたのです。当時の日本人知識層の理解力と創造力は大したものでした。そしてそれらの訳語が中国大陸や朝鮮半島にも伝えられたので今でも音が異なって使用され続けています。それは漢字が共通であったことが関係しています。この訳語という借入方法は昔からありました。

訳語ができた当初は概念も原語のまま理解されていたのですが、使用が増えて日本語化が進むにつれて、解釈も日本文化的になり原語の意味から少しづつ離れていくようになりました。改めて原語である英語の意味を解釈してみると、事実とは人の理解とは別に物理的に存在することであり、現実とはその事実を認識することで頭の中の存在です。真実とはその認識を信じることで、抽象度が一段階上がります。真実は多数が信じれば社会的に利便性があるため事実と異なることがありえます。天動説がその典型例です。しかし日本文化では事実と真実の混同がしばしばあります。なぜそうした混同が起こるかについては、これらの訳語を大和言葉に変換してみると意味構造がわかります。真実はマコトで、現実はアリノママです。事実はコトあるいはアリなのですが、普段はあまり使いません。そして3語の共通点である「実」はマコトです。つまり「コトとしてのマコト」「アルガママのマコト」「マコトのマコト」ということで、日本文化では存在よりも信じることが重要と考えていることがわかります。その結果、西欧では事実を示して正邪を争うことになりますが、日本ではマコトかどうかで結論が決まります。解決とは「みんなが納得」という心情的な一致になります。西欧では「事実を現実と認めた人が多数」が解決法であり、いわゆるエビデンスが重要になります。日本でも最近はエビデンス主義になりつつありますが、エビデンスとは事実ではなく現実化された事実のことです。従って事実は1つであっても異なるエビデンスが存在するわけで、その証拠としての能力が争われるわけです。この日本的な解釈法はいろいろな場面で登場しますので、順次解説していきます。

福沢諭吉

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