院政
承久の乱は北条義時と後鳥羽上皇の争いでしたが、上皇は退位した元天皇であり、政務を天皇に代わり直接行う政治形態を院政といいます。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代の本格的武家政治が始まるまでの間を院政時代と呼んでいます。上皇は「院」とも呼ばれたので、院政といいます。応徳三年(1086)に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の頃までを院政時代と呼ぶようです。
皇位は本来、継承は天皇の崩御によってのみ行われていました。皇位の生前譲位が行われるようになったのは、皇極天皇以降で持統天皇・元正天皇・聖武天皇など、当時は皇位継承が安定していなかったため、譲位という意思表示によって意中の皇子に皇位継承させるためにとられた方法でした。皇極・持統・元正は女帝で、男子皇位継承者までの中継ぎだったとされています。聖武天皇は国家事業であった東大寺建立に専念するためという事情もありました。これらが後年の院政の萌芽となりました。
平安時代中期には幼く短命な天皇が多く結果的に父系によるこの仕組みは衰退していき、母系の外祖父である藤原が代行する摂関政治が隆盛していきました。
しかし治暦四年(1068)後三条天皇の即位は皇統を一条天皇系へ統一するという流れを作り、藤原を外戚に持たない170年ぶりの天皇となって摂関政治が揺らぎ始めます。
延久四年(1072)に後三条天皇は第一皇子貞仁親王(白河天皇)へ生前譲位し病没します。後三条天皇は院政を開始する意図を持っていたとする見解が慈円により主張され、後世の議論となります。白河天皇も後三条天皇と同様に親政を行いました。そして応徳三年(1086)に当時8歳の善仁皇子(堀河天皇)へ譲位し上皇となって白河院と称して、引き続き政務に当たりました。これが院政の始まりであるとされています。嘉承に年(1107)に堀河天皇が没しその皇子(鳥羽天皇)が4歳で即位して白河上皇は院政を強化しました。白河上皇は鳥羽天皇の皇子崇徳天皇を皇位につけた後に崩じ、鳥羽上皇が院政を布くことなりましたが、鳥羽上皇は崇徳天皇を疎んじ、第九皇子である近衛天皇へ皇位を継がせたのですが、保元元年(1156)に鳥羽上皇が崩じた直後、崇徳上皇と後白河天皇の間で戦闘が起こり、後白河天皇が勝利しました(保元の乱)。後白河天皇は保元三年(1158)に二条天皇へ譲位し院政を開始しました。後白河院政期に平治の乱と平氏政権の隆盛およびその崩壊があり、治承・寿永の乱の勃発、源頼朝の鎌倉幕府成立など、武士が一気に台頭する時代となりました。後白河院政の後は孫の後鳥羽上皇が院政を行い、皇権復興を企図して鎌倉幕府を倒そうとしたが失敗しました。(承久の乱)。院政は承久の乱以降も存続し公家政権の中枢として機能しました。(https://ja.wikipedia.org/wiki/院政より)
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