華族の仕事
明治4年12月18日、華族・士族に農工商業の営業が許可されました。これと前後していくつかの改革があり、華族・士族が平民と結婚することが許可されました。翌年8月30日、農民の職業選択の自由が許可されました。これを四民平等といいます。
現在は華族・士族がいないため、ドラマなどで垣間見るにすぎず、作家や演出の考証が不十分だと誤解を招くだけの結果になってしまいます。当時の貴族は一般人とは違ったセレブな生活を送るイメージがあり、確かに多くの特権が与えられていました。その一方で不自由な部分も多く、むしろ貧困に喘ぐケースもありました。華族は国民の模範となるべき存在とされていて、学習院への入学は必須で、例え学力が低くても学習院で勉強しなければなりませんでした。もし不祥事が発生すれば華族の地位を一瞬で失う可能性もありました。華族の中でも格差が激しく、公家出身の華族は普通に生活することも困難でした。江戸時代から公家の財産は少なく、公家から華族になった人々は大名から華族になった人々に比べて生活が苦しかったのです。生活が大変な中、品位を保つことが必要とされるため、一部の華族はその地位を手放すケースもありました。特に深刻な事態となったのは金融恐慌によって華族の銀行だった十五銀行が破綻してしまったのが痛手でした。貴族がなくなった現在、皇族だけが今でもこうしたイメージをもたれていますが、近年はその伝統も揺らいできています。
四民平等はこれまで身分の低かった者にとっては歓迎でしたが、身分の高かった者にとっては不満の多いものでした。鎌倉時代から江戸時代まで武士の時代で、多くの特権をもっていました。そして平民も職業の制限がありました。四民平等によってその特権は失われ、近代化を目指す日本において武士は不要とされました。武士のなかでも大名や維新で活躍した武士のように華族の地位を手にした武士もいましたが、華族になれなかった武士は特権を失った士族となってしまい、やがて暴動を起こす不平士族が現れ、西南戦争が起きました。
華族制度が廃止されたのは日本の戦後処理としてGHQが介入したことによります。占領政策下の日本政府に一切の権限はなく、そんなGHQが課題としたのが日本の非軍事化であり、再度アメリカに宣戦布告する可能性をゼロにする目的もありました。GHQは日本を主導した軍人・政治家を逮捕し裁判するなどの対応をし、さらに憲法の改正を要求しました。これまでの大日本帝国憲法は天皇中心かつ軍事的な要素を含んでいたためで、国民主義・平和主義・基本的人権の尊重を中心とした憲法作成を日本の政府に命令しました。1946年大日本帝国憲法にかわる日本国憲法を公布、その翌年に施行されました。そして日本国憲法を作成する際に華族も廃止されたのです。華族廃止の理由は改めて日本国民全てを平等にするためでした。元華族は戦後においても活躍し、現在でも霞会館と呼ばれる親睦会が残っています。
華族には爵位があり、これも西欧の貴族初号の訳語のようです。五爵(ごしゃく)あるいは五等爵(ごとうしゃく)といい、公・侯・伯・子・男(こう・こう・はく・し・だん)でした。西欧には大公と訳されているgrand dukeがありますが、日本はduke, marquis, count, earl, baronに該当する5つのみです。英語ではこれにessという接尾辞を着けると夫人の意味になります。Dukeの夫人がduchessとなり発音が替わることも英語では必要な知識の1つです。爵位は明治から始まったものではなく、中国では周の時代からあり、聖徳太子の冠位十二階も思想としては同じです。
こうした社会階級は日本では皇族を除き、なくなりましたが、西欧ではまだ残っています。これを舶来主義の人たちはどう考えているのでしょうか。
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