小笠原、無人(ぶにん)島の歴史



文久元年(1862)12月19日、江戸幕府は小笠原諸島の領土宣言をしました。歴史に登場するのは、天文12年(1543) スペインのサン・ファン号によって母島が発見されたという説ですが、詳細は不明のようです。

天正20年(1593)  信濃小笠原氏の小笠原貞頼が伊豆諸島南方で3つの無人島を発見したとされていますが、これも根拠が薄いようです。

寛永16年(1639)オランダ東インド会社所属のエンゲル号とフラフト号が2つの無人島を発見し、エンゲル島、フラフト島と命名しました。エンゲル島は母島、フラフト島は父島ということのようです。

寛文10年(1670) 阿波国の蜜柑船が母島に漂着し、長右衛門ら7人は八丈島経由で伊豆国下田に生還、島の存在が下田奉行所経由で幕府に報告されました。この報告例が日本人による最初の発見報告と考えられているそうです。

延宝3年(1675)漂流民の報告を元に、江戸幕府が松浦党の島谷市左衛門を小笠原諸島に派遣。36日間にわたって島々の調査を行い、大村や奥村などの地名を命名した上、「此島大日本之内也」という碑を設置しました。調査結果は将軍をはじめ幕府上層部に披露され、これ以降、小笠原諸島は無人島(ブニンジマ)と呼ばれることになりました。

元禄15年(1702) スペインの帆船ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロザリオ号 が西之島を発見し、ロザリオ島 と命名しました。

享保12年(1727)  貞頼の子孫と称する小笠原貞任が貞頼の探検事実の確認と島の領有権を求め、幕府に訴え出ました。証拠として提出した貞頼の「辰巳無人島訴状幷口上留書」には父島、母島、兄島などの島名が記されており、これが各島の島名の由来となりました。これ以降、小笠原島と呼ばれるようになりました。しかし享保13年南町奉行大岡忠相より、貞任に対して無人島渡航の許可が下り、先遣隊が無人島へ派遣されますが、鳥羽を出発したまま行方不明となってしまいます。享保20年 奉行所が再度調査した結果、最終的に貞任の訴えは却下され、探検の事実どころか先祖である貞頼の実在も否定されてしまいます。このため貞任は詐欺の罪に問われ、財産没収の上、重追放の処分を受けました。

天明5年(1785) 林子平の『三国通覧図説』に「小笠原島」という名称が現れます。

文化7(1810) - 天文方高橋景保が『新訂万国全図』に「無人島」を記入しますが、この頃から欧米の捕鯨船が寄港するようになります。

文政6年(1823)イギリスブの捕鯨船トランジット号が母島に来航しフィッシャー島と命名します。これが記録に残る中では小笠原諸島に寄港した最初の捕鯨船です。

文政10年(1827)イギリス軍艦ブロッサム号が父島に来航。艦長フレデリック・ウィリアム・ビーチーは新島発見と思い違いし、父島をピール島、母島をベイリー島と命名し領有宣言を行いましたが、この領有宣言はイギリス政府から正式に承認されませんでした。

文政11年(1828)フョードル・ペトロヴィッチ・リュトケのロシア探検調査船セニャービン号が父島に来航。前年、イギリスのウィリアム号で残留した船員2名もこの時父島を後にしました。

文政13年(1830) ナサニエル・セイヴァリーら白人5人と太平洋諸島出身者25人がハワイ王国オアフ島から父島の奥村に入植しました。

天保6年(1835) 駐マカオ貿易監督官チャールズ・エリオットがイギリス政府に対し,

父島へ軍艦を派遣し占領するよう要請した。これは清朝に対するイギリスの根拠地を求めたためであり、この要請を受けてイギリス海軍は軍艦ローリー号の派遣を決定

天保6年(1835) 父島のリチャード・ミリチャンプがロンドンに一時帰国し、イギリス政府に小笠原移住民の保護を請願しました。

天保8年(1837) - ローリー号が父島に来航、各種の調査を行い、当時の父島の人口を42名と報告。この調査結果はイギリス政府に報告されましたが、3年後に勃発したアヘン戦争とそれに伴う南京条約の結果、イギリスは香港を獲得したため、小笠原諸島の占領は見送られました。

天保10年(1839) 蛮社の獄により、渡辺崋山ら11名が小笠原諸島渡航を企てた罪で捕縛されました。その後の取り調べで小笠原諸島渡航に関しては疑いが晴れるものの、4名が獄死し、5名が押込となった。

天保11年(1840) 陸前高田の「中吉丸」が父島に漂着し、生存した三之丞ら6名は2か月かけて船を修理したのち、下総国銚子に帰還します。

弘化3年(1846) 出島のオランダ商館長ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーンが長崎奉行に対し、小笠原諸島の実効支配を行うよう忠告するが、幕府はこれを黙殺する。

弘化4年(1847)  ジョン万次郎が米捕鯨船に乗って小笠原に来航。後年、今度は日本側官吏として小笠原にやってくることになります。

嘉永6年(1853)アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが日本へ行く途中、琉球を経て父島に寄港。島民のために牛、羊、山羊や野菜の種子を与え、石炭補給所用の敷地を購入したほか、3条13項から成るピール島植民地規約を制定し自治政府設置を促します。

嘉永6年(1853)ピール島植民地規約に基づき、ピール島植民政府が設立され、ナサニエル・セイヴァリーが首長となりました。

文久元年(1862) 幕府は外国奉行水野忠徳、小笠原島開拓御用小花作助らに命じアメリカから帰還したばかりの咸臨丸で小笠原に佐々倉桐太郎ら官吏を派遣、測量を行います。また居住者に日本領土であること、先住者を保護することを呼びかけ同意を得て、駐日本の各国代表に小笠原諸島の領有権を通告しました。

文久2年(1863) 八丈島から38名の入植が開始されました。

年明治9年(1876)明治政府は小笠原島の日本統治を各国に通告、日本の領有が確定し内務省の管轄となりました。

明治13年(1880) 東京府の管轄となりました。

明治15年(1882) - 東京府出張所の行う行政に協議権をもつ会議所を設置、議員15人を公選し、また欧米系住民が全て日本に帰化しました。

大正15年(1926) 小笠原島庁は、郡制の廃止とともに、東京府小笠原支庁に改称、北硫黄島ほか数島は小笠原支庁の直轄として残ることになりました。

昭和6年(1931) 沖ノ鳥島が小笠原支庁の所管となる。

昭和18年(1943)7月1日 - 東京都制の施行により東京都の管轄となります。

昭和19年(1944) 住民6,886人(残留者825人)は本土へ強制疎開。(

昭和20年(1945)硫黄島の戦い。日本兵18,375名と米兵6,821名が戦死。同年アメリカ軍駆逐艦ダンラップ号にて、小笠原の日本軍降伏を調印。

昭和21年(1946)1月26日 連合軍総司令部がSCAPIN-677を指令し、日本の小笠原諸島への施政権が停止されました。同年、連合軍総司令部が欧米系の旧島民とその家族135人のみに帰島を許可。うち129人が駆逐艦欅で帰島、ボニン諸島評議会(Bonin island council)と五人委員会が設立されました。ボニンはBunin(無人)の意味です。

昭和27年(1952)4月28日 サンフランシスコ講和条約の発効により、小笠原諸島がアメリカの施政権下に置かれ、小笠原支庁及び5村が廃止され、役場の一般事務は東京都総務局行政部地方課分室で行われることになりました。

昭和40年(1965) 第1回墓参団。

昭和42年(1967)11月16日 南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(米国との小笠原返還協定)により、小笠原諸島の日本への返還が決定。翌年6月26日 - 協定が発効、日本に返還され。東京都小笠原支庁を設置。小笠原諸島全域を領域とする小笠原村が設置されました。戦前の大村、扇村、袋沢村、北村、沖村および硫黄島村は、小笠原村となり、小笠原支庁直轄だった北硫黄島、南鳥島、沖ノ鳥島および西之島も小笠原村の区域となりました。

これが小笠原の少々詳しめの歴史です。200年以上も前から、領有を巡る競争があり、一度は米国に占領されましたが、返還され今日に至っています。領土問題というのはどこの国にも歴史があり、それぞれの主張があるので、難しい問題です。その一端を知っていただく参考になればと思います。

なお本日は13日の金曜日ですが、これはキリスト教の話ですので、念のため。

母島
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