戦いの日
旧暦卯月13日は「巌流島決戦」の日であり、文禄の役の日でもあります。巌流島というのは通称で本当の島名は船(舟)島といい今は無人島です。ここで宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘し、負けた佐々木小次郎が通称佐々木巌流と名乗っていたので、巌流島と呼ばれるようになったそうです。普通なら勝った武蔵の名前をとって武藏島と呼びそうなものですが、この島に負けた佐々木小次郎の墓を建てたことから巌流島と呼ぶようになったそうです。
この戦いを有名にしたのは吉川英治の小説『宮本武蔵』です。そもそもの決闘の原因は何か案外知られていません。佐々木小次郎は剣術の流派・巌流を創設した剣豪で小倉藩の剣術指南役を務めていました。そこに二天一流を創設した宮本武蔵が新たな剣術指南役として雇われることになり、弟子たちの間でどちらが強いのか口論になり雌雄を決することになってしまいました。これもただの口論ではなく背景に政治的な思惑があったそうです。関ヶ原の戦いの後、小倉藩を治めることになった細川忠興は、天正15年の豊前国人一揆で豊臣軍と戦った佐々木家を懐柔する思惑があったようで剣術指南役として佐々木小次郎を登用しました。細川家の庇護の下で弟子を増やしていく小次郎に対して細川家の重臣たちはいつか反乱を起こされるのではないかと危機感を覚えるようになりました。そこで重臣たちは「一条寺下がり松の戦い」において一人で70名以上の吉岡一門を倒したことで名声がある宮本武蔵を召し抱えることにします。双方の弟子たちをけしかけ口論をさせ、そして決闘の藩命が下り、戦わねばならない状況を作り出しました。いわば重臣たちの陰謀だったのです。なぜこんな辺鄙な島を決闘の場所に選んだかというとどちらかが負けた場合に逃げられないようにするためでした。正にプロレスの鉄条網や電流ロープのような場です。この島でアントニオ猪木とマサ斎藤が血戦をしたのも、その故事になぞらえたからとされています。佐々木小次郎は剣豪らしく刃渡り三尺の備前長船長光(通称物干竿)を使用し、武蔵は船の漕ぎ手からもらった櫂(かい)の手元を削って刀身二尺五寸と一尺六寸の木刀にして使用したとされています。二天一流は二刀流ですから二本は正しいのですが、かなり作るのに時間がかかったことでしょう。小次郎の長光も現物が残っていないそうですし、この決闘はどこまで真実なのか怪しい点も多いです。小説を元にしたドラマや最近のアニメなどでは小次郎は青年美剣士になっていますが、当時すでに50歳過ぎの老人だったという資料もあるそうで、井上雄彦の漫画『バガボンド』では耳が聞こえない設定になっており、いろいろなアレンジがあります。武蔵が木刀を使用していた理由は、人を殺すことを嫌っていたからで、武蔵は数々の決闘でも木刀を使用したとされています。しかし結局は小次郎を殺してしまうのですから、意味がなかったことになります。しかし一説では一対一の戦いであった巌流島の戦いに宮本武蔵は弟子たちを巌流島に忍ばせていました。そして武蔵が佐々木小次郎を倒した後、弟子たちは起き上がってきた小次郎を袋叩きにして撲殺したそうです。なんとも卑怯な感じがしますね。そして小次郎の弟子たちは敵討ちとして武蔵を殺そうとします。武蔵は巌流島の対岸の門司城の城代沼田延元を頼って難を逃れます。こうなるともう決闘という美しい戦いではなく泥試合になってしまいます。事実は小説よりも醜い面があります。
もう1つの戦いである文禄の役は慶長の役とセットになっており、秀吉が明との戦いを目的に朝鮮半島に上陸させ、明の冊封国である朝鮮に服属を強要したが拒まれ、遠征軍をまず朝鮮に差し向けました。小西行長や加藤清正らの侵攻により朝鮮国王宣祖は首都・漢城(今のソウル)を放棄し明の援軍との連合軍でこれに抵抗しました。一旦休戦の後、4年後再び戦いとなり慶長の役になりますが、秀吉の死去により終結します。この戦争は当時世界最大規模の国際紛争でした。
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