日本書記
旧暦皐月21日はいろいろなできごとがありました。養老4年(720)舎人親王らが『日本書紀』30巻と系図1巻を撰上しました。弘安4年(1281) 壱岐・対馬に高麗の兵船が襲来、弘安の役が始まりました。天正3年(1575年)長篠の戦いが始まりました。文政10年(1827) 頼山陽が元老中・松平定信に『日本外史』22巻を献呈しました。こうしてみると昔の歴史は戦の歴史が多いのですが、今回は日本書記と日本外史という歴史書について考えてみようと思います。
『日本書紀』は全30巻系図1巻(現存しない)からなり天地開闢から始まる神代から持統天皇代までを扱う編年体の歴史書です。1300年前に歴史書があったということは世界に誇るべき遺産です。神代を扱う1巻、2巻を除き、原則的に日本の歴代天皇の系譜・事績を記述しています。全体は漢文で記され、万葉仮名を用いて128首の和歌も記載されているのが特徴的です。特定の語意について訓注によって和語で読むことが指定されている箇所があり、漢文中に現れる日本語的特徴、日本語話者特有の発想による特殊な表現は現在では研究者によって和習(倭習)と呼ばれています。この和習を多々含むためその本文は変格漢文(和化漢文)としての性質を持ちます。
『日本書紀』は複数の撰者・著者によって編纂されたと見られ、この結果として全体の構成は不統一なものとなっています。編纂にあたっては多様な資料が参照されており、日本の古記録の他、百済の系譜に連なる諸記録、『漢書』『三国志』など中国の史書も参照されているそうです。歴史記録として古代日本の歴史を明らかにする上で中核をなす重要な史料であり、また東アジア史の視点においても高い価値を持つ史書です。『日本書紀』は『古事記』と並び日本に伝存する最も古い史書の1つです。『古事記』が序文において編纂の経緯について説明するのに対し、『日本書紀』には序文・上表文が無く編纂の経緯に関する記述は存在しないため、いつ成立したのか『日本書紀』それ自体からはわからないため8世紀末に完成した歴史書『続日本紀』から推定されています。
『日本外史』は、江戸時代後期に頼山陽が著した国史書で外史とは民間による歴史書の意味です。源平氏から徳川氏までの武家盛衰史で、すべて漢文体で記述されています。文政10年(1827)元老中首座の松平定信に献上され、2年後に大坂の秋田屋など3書店共同で全22巻が刊行されました。幕末から明治にかけてもっとも多く読まれた歴史書ですが歴史考証は不正確で議論に偏りがあり、史書というよりは歴史物語であるといえます。しかし独特の史観とダイナミックな表現で幕末の尊皇攘夷運動に与えた影響は甚大でした。伊藤博文、近藤勇の愛読書であったことでも知られ、頼山陽的な歴史観、国家観は幕末から維新、戦前の日本に大きな影響を及ぼしたとされます。
現代はこうした歴史書を読むことは少なく、司馬遼太郎の小説やNHKの大河ドラマ、映画、歌舞伎などのエンターテイメントが日本人の歴史観に影響を与えており、架空の人物の存在を信じていたり、事実とは異なることが広く信じられているなどの弊害も目立つようになってきました。歴史書に偏りがまったくないとはいえませんが、少なくともフィクションとは区別して考えたいものです。現代語訳も出版されていますから、一度は目を通したいものです。また戦後は神話部分をファンタジーとして見ることが多いですが、すべてがファンタジーではない、ということも考えたいですね。
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