琉米修好通商条約



琉米修好条約(りゅうべいしゅうこうじょうやく)Convention between the LewChew Islands and the United States of Americaとは、1854年7月11日(咸豊4年・嘉永7年6月17日)に琉球王国とアメリカ合衆国が締結した条約(Wikipedia)です。1858年に日米修好通商条約が結ばれることになる前哨戦なのですが、日本史で習うことは稀だと思います。当時の琉球が幕府管轄ではなかったことを示しています。長いですがwikidiaの記述をそのまま下記に引用します。
1853年5月26日(咸豊3年・嘉永6年4月19日)、マシュー・ペリーがサスケハナ号他3隻を率いて初めて那覇港に来航、5月28日(4月21日)にペリーは総理官摩文仁按司尚大模と初めて会見。6月6日(4月30日)首里城を訪問、首里城北殿にて総理官などと会見(この責任を取って尚大模は総理官を辞任している)。さらに6月8日(5月2日)にペリーは国王等に品物を贈り、6月9日(5月3日)ペリーはミシシッピ号を残して小笠原諸島に出航した。6月18日(5月12日)小笠原諸島から那覇に帰港したペリーは艦隊への資材の供給を終えると7月2日(5月26日)サプライ号を那覇港に残して軍艦4隻を率いて浦賀に向けて出航した(このとき浦賀に向かった4隻とは別にキプライス号は上海に向かった)。その後、7月25日(6月20日)大統領の親書を江戸幕府に渡したペリーは浦賀から帰港、資材の供給し、琉球側に聖現寺の一年間の賃貸及びその協定、約5、600トンの炭を貯蔵できる施設の建設及びその施設の妥当な金額での貸与、偵吏の追跡を禁止、市場を設け交易を自由とすることの4か条の要求しこれを承諾させ8月1日(6月27日)香港に向けて出航した。1854年1月21日(咸豊3年・嘉永6年12月23日)、ペリーが軍艦3隻を率いて来航し、再度首里城を訪問、資材等を供給し、2月7日(1月14日)江戸に向かって出航した。7月1日(咸豊4年・嘉永7年6月7日)ペリーは、日本と日米和親条約締結後、来航。7月7日(6月13日)に琉球との条約締結に向けた本格的な交渉が始まり、翌日協議が開かれ条約案に修正加えられ、条約に関する琉球側の回答の期限を明後日の7月10日(6月16日)とした。7月10日(6月16日)に再度協議、条約修正案を承認、琉球側は条約を承諾すると答え、明日調印することが決まると7月11日(6月17日)にペリーと尚宏勲らが調印、漢文(琉球王国の外交上の文書は漢文)と英語ともに2通作成、交換した。さらに、7月13日(6月19日)にはもう一通作成している。なお、ペリーは、琉球が武力で抵抗した場合には占領することをミラード・フィルモア大統領から許可されていた。
ペリーは浦賀に来る前に、琉球や小笠原など往復し、日本政府との交渉に臨んでいたわけです。このことがなぜ重要かというと米側は当時、すでに地政学的な知識をもっていて、日本攻略には必要と考えていた、ということです。地理は今も昔も変わりませんから、現在でもそのまま通用するということです。この琉米修好通商条約の有効性について、現在沖縄は日本に含まれているので、1879年(明治12年)の琉球処分で琉球王国が滅亡したことにより、当条約は失効したとされています。しかし当事者の一方である米国がそれを承認したのかを不明です。また当時琉球は薩摩藩の付庸国であり、かつ清に朝貢する日清両属の琉球王国が、国際法上の主体となれるのか、という疑問が残されたままです。もう昔のことだから、ということでしょうか。

首里城

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