足高の制と大岡越前



享保8年(1723年)6月18日江戸幕府8代将軍・徳川吉宗が足高の制(たしだかのせい)を施行しました。江戸幕府では各役職には各々禄高の基準を設けられていました。たとえば大目付・町奉行・勘定奉行は3千石となっていました。それ以下の禄高の者が就任する際に、在職中のみ不足している役料(石高)を補う制度が「足高の制」です。八百石の旗本が基準高3千石の町奉行に就任した場合は、在職期間中に限って幕府から不足分として2千2百石が支給されるという制度です。今でいう職能給のようなものです。これは能力や素質があるが家柄が低いために要職に就けないといった旧来の不都合を解消し、良質の人材を登用することがその目的でした。実際にはそれ以前にも有能な者は加増をして高位に取り立てることは行われいましたが、一方ではそれが幕府財政窮乏の一因ともなっていました。吉宗の改革の1つです。
足高の制によって、役職を退任すれば石高は旧来の額に戻るため、幕府の財政的な負担が軽減できるというのが最大の利点であったはずですが、現実には完全施行は難しかったようで、家格以上の役職に就任した者が退任するにあたって世襲家禄を加増される例が多かったのは、やはりそれでは不満が残るからです。この制度のきっかけは吉宗政権で政治顧問的待遇であった酒井忠挙が、京都所司代の松平信庸が自らの領地からの収入だけでは任務に支障が生じていることを見て、吉宗に「重職役料下賜」を提言したことだそうです。
足高の制により要職に登用された人物として大岡忠相がいます。大岡忠相は1700石の旗本の家に生まれ、無役から書院番、目付と出世し、伊勢の山田奉行となり、奉行支配の幕領と紀州徳川家領の間での係争がしばしば発生してのを前例に従わずに公正に裁いたことを当時の紀州藩主で後に将軍職に就任した吉宗が忠相を江戸町奉行に抜擢しました。吉宗の期待通り大岡は公正な裁判と火消しの創設など江戸の町の治安に貢献しました。落語や講談で有名な大岡政談はほとんどが別の人の話や創作なのですが、映画やドラマによってよく知られるようになりました。最後の部分はドラマ化されませんが、江戸町奉行のあとはより高位の寺社奉行となり、
公事方御定書の追加改定や御触書の編纂に関わりました。寺社奉行時代に2,000石を加増され5,920石となり足高分を加え1万石の大名格となりましたが、寺社奉行は、本来は大名の役職で大岡は旗本の身分のままでしたから相当いじめられたそうです。吉宗の死去後、葬儀の手配をし、直後に体調を崩して亡くなっています。正に吉宗に仕えた一生だったわけです。ちなみに大岡忠相は大岡越前守として話に出てくるのですが、越前守というのは名称に過ぎず、領地は三河国の宝飯(ほい)・渥美(あつみ)・額田(ぬかた)の三郡です。墓地は大岡家代々の墓がある神奈川県茅ケ崎と東京都台東区谷中にありますが、茅ケ崎の方が有名です。
足高の制は人材登用の方法としては画期的で合理的です。とくに家柄の世襲で禄高が決まっている社会では有効に機能したでしょう。現代の役人の世界でも俸給は決まっており位階が上がるごとに昇級する制度で、年功序列制度が続いていますから、若い優秀な人材は民間に出てしまう傾向にあります。一方で国会議員は大臣などの役職に就くと足高になります。しかし大臣などになると議員としての活動はしないわけですから、本来は役職の俸給を上げて議員としての俸給はなくすなどの対応するのが合理的ですが、都合の良い制度はなかなか改正されないままです。

南町奉行所

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