南北朝の分裂
南北朝の分裂というと朝鮮半島のことを連想する人もいるかもしれません。それくらい南北朝分裂の歴史的意味は教えられていません。一つの出来事としか考えられておらず、時代的には鎌倉時代と室町時代の間ですが、室町時代に入れて理解されることが多いようです。建武の新政(1333年)の崩壊を受けて足利尊氏が京都で新たに光明天皇(北朝=持明院統)を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇(南朝=大覚寺統)が吉野行宮に遷ったのが建武3年/延元元年12月21日のことでした。令和6年1月21日は旧暦12月11日ですが、その吉野遷宮の前年、建武2年12月11日に南北朝動乱の始まりとされる 箱根・竹ノ下の戦いがありました。その戦いで、建武政府に叛旗を翻した足利尊氏が後醍醐天皇の宣旨を受けた新田義貞軍を破りました。鎌倉時代の後半から両統迭立という不自然な形の皇位継承を繰り返した皇統はすでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に分裂しそれが恒常化していました両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し大規模な戦いが起き、各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れる状態でした。
南北朝分裂時代は南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一した明徳3年/元中9年(1392年)閏10月5日に終わります。
南北朝時代の意義は公家勢力の無力化と武家単独政権の成立です。鎌倉時代は鎌倉幕府と朝廷の公武二重権力構造であり、公家もなお荘園・公領を通じて一定の権力を有していたのですが、天皇親政を掲げる南朝の失敗により、皇室など旧勢力の権威は失墜していき、北朝の公家も室町幕府第3代将軍足利義満によって、警察権・民事裁判権・商業課税権などを次々と簒奪されていった結果、南北朝が合一したとき、後に残った勝者は南朝でも北朝でもなく、足利将軍家を中心とする室町幕府と守護体制による強力な武家の支配機構になりました。公家社会が終わり武家社会となったのです。
南北朝時代は二毛作の普及等で生産力が向上し民衆の力が増したことにより、それまで族縁(血筋・婚姻)を元に形成されていたのが、この時代に「惣」(村落)という地縁で結ばれるようになりました。この社会構造の変化が動乱の基本的な要因です。
社会構造の変化が政治を変えていった例として現代にも通じる側面があります。
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