北方領土と日露和親条約


北方領土

1981年日本政府が北方領土の返還運動の推進と、国民の関心と理解を深めることを目的に「北方領土の日」を閣議決定にて制定しました。北方領土とは現在ロシア連邦が実効支配している国後島・択捉島・歯舞諸島・色丹島の4島を指します。記念日の日付は日本(江戸幕府)とロシア(帝政ロシア)で最初に国境の取り決めを行った、1855年(安政元年)の「日露和親条約」の締結日(新暦)に由来する、としていますが、安政元年(1855年)12月21日のことですから、新暦制定以前の歴史なので、これも旧暦に換算しての日付です。このように現在は旧暦の日付のものを新暦に換算することが当たり前になっていて、歴史もすべて西暦(新暦)で覚えることになってしまいました。なぜなのか説明のないまま、この習慣は現在も続いています。

この条約によって択捉島と得撫島の間に国境線が引かれました。樺太においては国境を設けず、これまでどおり両国民の混住の地とすると決めらました。この条約は1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約によって領事裁判権をはじめ全て無効となりました。

現在も問題となっている北方領土問題は千島列島の範囲が一つの争点となっており、日本政府は1951年のサンフランシスコ講和条約で千島列島を放棄したが、歯舞・色丹は含まない(北海道の一部である)としたうえで国後、択捉についても明確にしませんでした。これは1946年2月のソビエトによる一方的な併合宣言や、すでに朝鮮半島で始まっていた東西陣営による緊張のなかで、北方占領地や台湾・沖縄・小笠原などが焦点となったためです。ソビエトも米国による南西諸島・台湾・小笠原諸島の国連信託統治の形での実効支配を非難し、また日本が放棄した旧領土(南樺太および千島)の帰属を意図的に除外しているサンフランシスコ条約の英米案を非難しました。ここで問題になったのは日露和親条約におけるロシア語・オランダ語の条文と日本語訳文のギャップです。「ロシア語・オランダ語では「残りの、北のほうの、クリル諸島」と書かれているが、日本語では「夫より北の方のクリル諸島」と書かれており、日本語では「残りの」が抜けている。このため、日本語の条文を見るかぎりクリル諸島の地理的呼称とは得撫島よりも北であるかのように読めるが、ロシア語・オランダ語ではクリル諸島の地理的呼称は得撫島以北に限定することはできないとする。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/日露和親条約)これはクリル諸島(千島列島)の定義に関する議論ですが、現状は国後や択捉を含む「北方4島」もロシア領となっていて、議論の意味はなさそうです。

日本は太平洋戦争後、他国に奪われた領土はいろいろあるのですが、奪還を考えないまま現在に至っています。領土問題は現在でも、世界の各地で紛争になっていて戦争になっています。日本が長く戦争のない国になっているのは、領土問題を放棄したからともいえます。個人間の土地問題は裁判による決着が可能ですが、国際間では不可能というのも事実です。

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