統一が望まれるものと統一できないもの
なんでも「統一すべき」と考える人が多いのですが、実際には「統一が望まれるもの」と「統一できないもの」があり、「すべき」として強制すると無理が生じます。たとえば学年にしても、生徒がばらばらに入学してくると困るのは学校であり、生徒自身ではありません。小学生など1年の成長の差は大きく、4月生まれと3月生まれではかなり違いがあります。学習過程を考えると随時入学が適当であり、実際、音楽や美術などの習い事では入学は随時であり、進度や習熟度は個人差があるので、指導も個人的になっています。公立の学校では「平等とは統一」と考える人が多く、習熟度別に指導を変えることはご法度にしているケースが目立ちます。カリキュラムとは本来、個人の進度に合わせて調整できるものですが、教育現場では学年単位で統一的進度に調整することが当たり前になっています。カリキュラムに遅れることは教師の指導力不足とさえいわれます。早いことが良いことなので、いわゆる「新幹線教育」になりがちです。当然「落ちこぼれ」がたくさん出ますが、それは教わる側(生徒)の責任ではなく、制度の問題です。教師も統一することに疑問があっても、システムに逆らうことはできないので、いつまでも続いています。
統一とまではいわなくても、統一が望ましいものとしては、度量衡や通貨です。米の量を測る升が違っていては不公平が生じます。物差しが違っていては検地もできません。度量衡の統一は昔から政府の最大の政策であり、その普及に腐心してきた歴史があります。しかし未だ世界統一には至っていません。日本は比較的昔にメートル法を採用し、統一しましたが、英米は未だにヤード・ポンド法です。温度も日本が摂氏なのに対し、アメリカは華氏を頑強に守っています。度量衡の統一は政府の力関係が決め手なので、意外と多様性が認められたままです。時間はさすがに統一され、時刻は国や地域によって時差がありますが、時間の差はありません。しかし「時間感覚」は地域差が大きいままです。鉄道の時刻が日本は正確なことに外国人は一様に驚きます。時刻通りに運行しないことが「世界の常識」です。
通貨は国内ではどこの国でも統一されています。そうでないと商売が成り立ちません。しかし、国が違うと通貨が違うのも当たり前のことになっていて、通貨間の交換レートが存在します。そのレートは固定の場合もありますが、例外的で普通は変動します。しかもそれは実勢価格ではなく、交換市場というビジネスによって支配されていますから、政府ですら管理がなかなかむずかしいものです。そして国際通貨はあるものの、世界統一通貨はありません。西ヨーロッパでは経済共同体(EC)を作ることで、統一通貨を採用したのですが、域内国家までは統一しませんでしたから、国家間に差が出ています。通貨同様に物価も地域差があるのが普通で、物価は原則、需要と供給のバランスによって決定されるはずですが、実際に定価という形で統一されていることもあり、地域差がある場合もあり、混在しているのが実情です。
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