主観軽視の文化


面接

日本では客観重視の文化が定着しています。逆に言えば主観軽視ともいえます。よくテレビのCMなどに「個人の感想です」といったテロップが小さな文字で書いてあることがあります。これは外国のCMではまず見られません。「個人の感想」なのは最初からわかっていますし、どうせ書くなら「あくまでも演出です」と書いてある方が正直な感じがします。グルメ番組でも出演者が「おいしい」というオーバージェスチャーでするコメントは演出が見え見えです。おいしいかどうかなど主観に決まっていますから、わざわざ註を入れる必要はないわけです。

評価についてはとくに客観性が重視される傾向にあります。面接試験では面接者の主観があるのは当然なのですが、それでも客観性を重視して、複数人で判定したりします。そしてペーパーテストが客観的で、重視する傾向があります。入学試験など合否が関係する場合はとくにその傾向が強くなります。果たしてそれは絶対的真理なのかどうか再考の余地があります。

外国の大学入試では、面接だけで決まるケースが多く存在します。会社の就職でもボスの面接で決まることが普通です。ところが日本では公務員は元より、会社でもペーパーテストがあり、そこでふるい落としがあって、最終的に面接をする、というケースが多いようです。日本では主観による面接試験では縁故つまりコネによる採用のリスクがあることが指摘されるのですが、そもそもコネ採用がなぜいけないのか、という根本的な議論がなされることは少ないです。中小企業や零細企業では身元がわかっている方が安心できる、という側面もあり、客観的試験が必要という声はあまり聞きません。大企業や大学などでペーパーテストによる客観的試験を重視するのは採用を担当する人事担当者に見る目がない、というか自信がないことの現れかもしれません。そもそも人間の判断をあまり信用していない、という風土が背景にあるようです。客観重視の結果、コンピュータへの過剰な信頼やテスト結果の過剰な重視につながることがしばしばです。機械による判断は客観的と思いがちですが、実際には操作する人間の主観や価値観が反映しています。機械はあくまでも人間の判断の補助であり、最終的に結論を出すのは人間、という当たり前のことが案外、日本では理解されていません。機械には主観がないので当然のことです。今、将来、コンピュータが意思をもったら、という議論がありますが、それは本当に「意思」といえるかどうかの議論が問題で、その疑似的な意思判断が正しい、とする根拠が曖昧のままです。主観重視という価値観の社会であれば、主観をもたない機械の判断に従うことはしないでしょう。主観の問題点として、いつも言われるのは、判断がバラバラになることです。主観に多様性があることは自明の理であり、一方で多様性を主張しつつ、客観による統一を望むのは矛盾です。ただし主観には知識と思考力に個人差があり、それが多様性の原因にもなっています。民主主義というのは個人の多様性が前提なので、判断と決定に揺れが出るのは自然なことです。

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