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風土記の始まり新着!!
風土記というのは時々、番組のタイトルになることがありますが、その起源はかなり古く、奈良時代初期の元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂したものが最初です、風土記とは、一般には地方の歴史や文物を記した地誌のことを指すますが、狭義には、日本の奈良時代に地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた報告書を意味します。つまり定義は意外に曖昧なので、奈良時代の官製の風土記を普通の風土記と区・・・
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日本海海戦新着!!
日本海海戦は、日露戦争中の1905年(明治38年)5月27日から5月28日にかけて、大日本帝国海軍の連合艦隊とロシア帝国海軍が極東へ送った第2・第3太平洋艦隊によって日本海で行われた海戦です。主力決戦は対馬東方沖海域で行われたため、日本以外の国々では、この海戦を対馬沖海戦と呼んでいます。第2・第3太平洋艦隊はロシアのバルト海艦隊(バルチック艦隊)から引き抜いて編成されたものであるため、日本ではこの・・・
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飛鳥板蓋宮新着!!
皇極天皇2年(643)4月28日(旧暦)皇極天皇が飛鳥板蓋(いたぶき)宮に都を移しました。板蓋宮は、7世紀半ばに皇極天皇が営んだ皇居で、一般には飛鳥板蓋宮と呼称されています。現在の奈良県明日香村岡にある飛鳥京跡にあったと伝えられています。642年(皇極天皇元年)1月、皇極天皇は夫である舒明天皇の崩御により即位し、同年9月19日、大臣である蘇我蝦夷へ新宮殿を12月までに建設するよう命じました。これに・・・
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千代田の刃傷新着!!
江戸城内での刃傷(にんじょう)沙汰といえば、忠臣蔵の「松の廊下」が有名ですが、実は何度もこうした刃傷沙汰が起きています。千代田の刃傷は、文政6年(1823)4月22日(旧暦)に松平忠寛(外記)によって引き起こされた刃傷事件です。 西の丸の御書院番の新参・松平忠寛(松平外記)は、古参の度重なる侮罵と専横とに、ついに鬱憤これを抑えることができず、本多伊織、戸田彦之進および沼間左京の3人を殿中において斬・・・
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政体書新着!!
1868年6月11日(慶応4年閏4月21日)に明治政府は政体書を布告しました。これが真の意味の明治維新でしょう。政体書は明治初期の政治大綱で、統治機構について定めた太政官の布告です。副島種臣と福岡孝弟がアメリカ合衆国憲法および福沢諭吉の『西洋事情』等を参考に起草したものです。当時の最先端の政治思想ということになります。慶応3年12月9日の王政復古のクーデター、慶応4年1月3日 - 7日の鳥羽・伏見・・・
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三世一身法新着!!
養老7年(723) 三世一身法が発布されました。今では何でもないような感覚で受け止められるようですが、農地というものは個人所有でなく、領主のもの、あるいは国家のもの、という考えは未だに広く世界に広がっていることを思うと、当時の日本は画期的であったといえます。「三世一身法(さんぜいっしんのほう)は、奈良時代前期の養老7年4月17日(旧暦)に発布された格(律令の修正法令)であり、墾田の奨励のため開墾者・・・
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阿弖流為新着!!
阿弖流為(あてるい)は、8世紀末から9世紀初頭にかけて東北地方で活躍した蝦夷(えみし)の指導者です。彼は大和朝廷の支配に抵抗し、蝦夷の人々を率いて戦いました。 蝦夷とアイヌは、しばしば同じように扱われることがありますが、実際には異なる歴史的背景や文化を持っています。ただし、蝦夷の中には、アイヌとつながりの深い人々もいました。歴史の中で、東北地方から北海道に移住した人も多く、文化的な影響を受けている・・・
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ロンドン条約とルクセンブルグ新着!!
1867年5月11日、ロンドン条約が結ばれました。ロンドン条約、と聞くと「どれ?」と思うのが歴史ファンです。「ロンドン条約」で検索すると、実に多くの条約が出てきます。つまりロンドンというのは中心地であり、集まりやすい場所、ということでもあります。古くは1358年の百年戦争中にイングランド王国とフランス王国の間で締結された条約です。当時のイングランドはそれほど強国ではなく、エリザベス一世の時代に大国・・・
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間宮林蔵と樺太新着!!
文化5年(1808)4月13日(旧暦)、当時29歳の間宮林蔵は、松前奉行支配調役松田伝十郎とともに宗谷を出発し、樺太を探索することとなりました。宗谷岬から渡航して樺太南端のシラヌシ(本斗郡好仁村白主)でアイヌの従者を雇い、漁に用いる小舟を借りました。樺太が島であればどこかで必ず出会うはずだと考えた間宮一行は、松田は西海岸から、林蔵は東海岸から樺太の探索を進めました。林蔵は多来加湾岸のシャクコタン(・・・
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戦後賠償新着!!
1956年05月09日、日本国はフィリピン国に戦後賠償の条約を締結しています。金額は5億5000万ドル(当時)、1980億円です。その他にも、1955年11月05日、ビルマ(現在のミャンマー)に2億ドル(720億円)、1958年01月20日、インドネシアに2億2308万ドル(803億880万円)、1959年05月13日、ベトナムに3900万ドル(140億4000万円)と、合計10億1208万ドル(・・・
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無血開城新着!!
明治元年(1868)4月11日(旧暦)、江戸城の無血開城が行われました。これは「話し合いにより流血を避けた」という美談として知られています。しかし、現代の目で見れば「無条件降伏」と同じです。無血開城というと、本件のことを意味しますが、一般的には明け渡しであり、戦わずして城を明け渡すことは何度もありました。有名な例をとしては、「赤穂浪士」に出てくる、赤穂城の明け渡しです。浅野家が改易になって、家臣は・・・
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廬舎那仏新着!!
天平勝宝4年(752) 奈良・東大寺の蘆舎那仏(奈良の大仏)の開眼供養が行われました。奈良といえば東大寺、東大寺といえば大仏というくらい有名ですが、どういう仏なのかは案外知られていません。 毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)は、大乗仏教における信仰対象である如来の一尊です。華厳経において中心的な存在として扱われていますが、後に発生した密教においては大日如来と同一視されています。実在した人物としてのゴータ・・・
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お初天神新着!!
元禄16年(1703)に起きた悲恋の事件が大阪梅田のお初天神の由来です。堂島新地天満屋の遊女「お初」と、内本町平野屋の手代「徳兵衛」が、天神の森(現在の露天神社の裏手)で心中を遂げた事件です。この事件を題材に、劇作家の近松門左衛門が人形浄瑠璃「曽根崎心中」を制作し、広く民衆の涙を誘いました。この作品のヒロイン「お初」の名前から「お初天神」と呼ばれるようになり、現在でも恋愛成就を願う参拝者が訪れる「・・・
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五か条のご誓文新着!!
5月3日は憲法記念日ですが、今年は旧暦の慶応4年4月6日に相当し、この日に五か条のご誓文が発布されています。五か条のご誓文は京都御所の正殿・紫宸殿で明治天皇が天神地祇に誓約する形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針のことで、正式名称は御誓文といいます。現代語訳では以下のようになっています。(wikipedia) 一、広く会議を開き、すべてのことをみんなで話し合って決めるべきである。一、上・・・
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女子断髪禁止令新着!!
明治5年(1872)4月5日(旧暦)、東京府は男女の区別が判然としない髪型は禁止すべきという考えから女性はみだりに髪を切ってはいけないという「女子断髪禁止令」(東京府達32号)を布告しました。このことはあまり知られていません。東京府が太政官に「婦人断髪ノ儀ニ付伺」と許可を求めました。当時、日本髪を結うのに鬢付け油が使われていました。結髪もさることながら洗髪も時間がかかり面倒でした。それに猛反発して・・・
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戸籍法新着!!
明治4年(1871)4月4日(旧暦) 戸籍法が公布されました。新暦採用は明治5年ですから、当時はまだ旧暦のことです。この戸籍はこの年の干支壬申であったことから「壬申戸籍」と呼ばれています。江戸時代の宗門人別改帳に代わり、皇族から平民まで戸を単位に集計したものです。宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)は、江戸時代の中期に宗門人別改で宗門改帳と人別改帳が統合された民衆調査のための台帳で、現・・・
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聖徳太子と十七条憲法
推古12年(604)聖徳太子が十七条憲法を制定しました。今から1421年前のことです。英国憲法の礎といわれるマグナ・カルタの制定は1215年ですから、それより611年も前のことです。日本はもっとこれを誇りにしてもよい、と思われます。全部は紹介しきれませんが、現代語訳で読んでみると、現代にも通用する教えであることがわかります。Wikipedia から一部引用します。 第1条:おたがいの心が和らいで協・・・
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島原大変肥後迷惑
島原大変肥後迷惑(しまばらたいへんひごめいわく)とは、江戸時代の1792年5月21日(寛政4年4月1日(旧暦))に肥前国島原(現在の長崎県)で発生した雲仙岳の火山性地震およびその後の眉山の山体崩壊(島原大変)と、それに起因する津波が島原や対岸の肥後国(現在の熊本県)を襲ったこと(肥後迷惑)による災害である。(wikipedia)「犠牲者は約1万5000人に達し、日本史上最大規模の火山災害となった。・・・
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物部守屋と丁未の乱
物部氏は日本史上、反逆者扱いになっていますが、それは仏教を信奉した蘇我氏が政権を取り、聖徳太子が仏教を広めていったことが正史とされているためです。以下、wikipediaのまとめを引用します。「物部氏は日本に伝来した仏教に対しては強硬な廃仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立していました。敏達天皇元年(572)、敏達天皇の即位に伴い、守屋は大連に任じられました。敏達天皇14年(585)、病になった大臣・蘇我・・・
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日本のリサイクルの歴史
元禄9年(1696)3月29日(旧暦) 江戸幕府は江戸市中のごみを利用した埋立てを許可しました。それが現在の永代島です。 ゴミを埋めて土地にする、という発想は近代的なものと誤解されていますが、江戸時代からあったのです。江戸時代は相当なリサイクル社会でした。この時代は実に物を大切にしていました。下駄は鼻緒が切れれば布か紐で代用し、どうしてもダメなら新しい鼻緒と取り替えます。下駄の歯が減れば歯だけを取・・・
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