討ち入り
忠臣蔵は誰もが知っていますが、その物語は映画やテレビドラマの影響で固定化されています。その元となったのは人形浄瑠璃や歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」です。「刃傷松之廊下」「赤穂義士の討ち入り」も実際にあったことですが、当時は、私怨による仇討ちですし、徒党を組んでの押し入りですから、ヤクザの出入りと同じで、御法度でした。そこで、昔の室町時代の話、という設定にして、検閲を逃れたわけです。そのせいで、名前も変えられ、浅野内匠頭は塩冶判官、吉良上野介は高師直、大石内蔵助は大星由良助となっています。『仮名手本忠臣蔵』の「仮名手本」とは、赤穂四十七士をいろは四十七文字になぞらえたものです。『仮名手本忠臣蔵』は全十一段の構成となっている義太夫浄瑠璃で、その十一段が「討ち入り」です。それが史実としては、現六十五年師走十四日ということです。この日は、東京港区の泉岳寺では義士祭りが行われます。また吉良上野介の「命日」なので、愛知県西尾市の吉良家の菩提寺である華蔵寺で法要が営まれます。それが吉良公毎歳忌(きらこうまいさいき)です。吉良上野介は忠臣蔵では敵役で、悪人扱いですが、地元では名君として慕われています。江戸幕府・高家筆頭の吉良上野介公は、芝居『忠臣蔵』で悪役に仕立てられてしまったので、その320年の冤罪を今こそ晴らしたい、というイベントも行われているそうです。史実を正確に見れば、「日本最大の風評被害」ということでもあります。実際、忠臣蔵は作り話が多く、要するに演劇としてのフィクションなのですが、真実を思っている人も多いようです。吉良は浅野をいじめた、というのは史実ではないようで、勅使を迎え入れる礼儀作法を知らない浅野に厳しく指導した、ということを逆恨みし、乱心して人情沙汰を犯したのが「松之廊下」事件でした。実際、たとえカッとしたにしても、その後のことを考えたら刃傷沙汰には及びません。そもそも、浅野は吉良の背後から切りかかっており、武士としては卑怯な襲撃です。結果として、吉良が振り返ったため、額に傷を負いました。その結果、処罰されるのは当然のことです。そして吉良は被害者なのに、「喧嘩両成敗」ということで、吉良も処罰を受けました。現代の感覚ではどのような事情があろうと、被害者が処罰されるのはありえないです。せいぜい加害者の罪が減じられる程度です。そして、浪人となった家臣団が徒党を組んで、吉良邸に押し入り、被害者を殺害するなど、逆恨みもいいとこです。吉良は反撃として刀を抜くことはしていないため、喧嘩というよりも浅野の一方的な暴力事件ということになり、浅野だけが切腹、お家断絶という処罰になりました。浅野の家臣は恨むなら、沙汰を下した幕府のはずです。そこで吉良邸への討ち入りは「幕府への反逆」とみなされました。それで全員切腹を命じられたわけです。事件当時「仇討ち」というのは、親や兄などの目上の親族に対して行うものであり、主君の仇を討つというのは前例がなかったのです。ただ当時は儒教が盛んな時期で「義」を重んじる風潮もあり、それで赤穂義士と呼ばれるようになりました。
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