明の滅亡


コラム挿絵:洛陽の風景写真

4月16日は旧暦3月19日になります。この日は中国における歴史的転換点です。崇禎17年/順治元年(1644年) 李自成が率いる叛乱軍が北京を占領し、崇禎帝が自害し明が滅亡しました。

李自成(りじせい)は、明末の農民反乱の指導者です。明に対して李自成の乱と呼ばれる反乱を起こして首都の北京を陥落させ、明を滅ぼしました。順王朝(大順)を建国して皇帝を称したのですが、すぐに清に滅ぼされました。李継遷(西夏の初代皇帝李元昊の祖父)の末裔を称したそうですが、実際には延安府綏徳州米脂県李継遷寨(現在の陝西省楡林市横山区殿市鎮)の出身の農民の子で少年時代から騎射が得意で20歳前後で駅卒になりましたが、崇禎帝の時期に経費節減のため駅站は廃止され、駅站廃止によって失業した者たちは路頭に迷い、農民反乱を起こすことになり、李自成もその中の一人でした。

天啓7年(1627年)・崇禎元年(1628年)に陝西で起きた大旱魃をきっかけに反乱が頻発し、李自成もそれに参加しました。その間の朝廷は満洲族対策に追われて満足に反乱対策を行えず、これに乗じて反乱軍は勢力を拡大し、山西を制圧し、北直隷まで迫るほどになりました。その後、官軍の反撃により押し返され、河南へと移動します。この時期の反乱軍首領は高迎祥であり、その下に張献忠などがいました。李自成は高迎祥配下の武将の一人に過ぎなかったのです。この時の作戦会議「滎陽大会」で官軍に対して全軍が協調して当たるべきだと発言して注目され、さらに翌年には官軍に捕らえられて刑死した高迎祥の後継者となり、高迎祥が自称していた闖王を名乗り、反乱軍の首魁となっていきました。ただし「滎陽大会」は清初の書物で創作された伝説であり、実際にあったできごとではないとされています。

高迎祥の死によって反乱軍の勢いは弱まっており、李自成たちは官軍の追及を逃れて陝西へ退却し、さらに山野に隠れざるを得なくなりました。このことで李自成軍の勢力を軽視した官軍は、湖広(湖北省・湖南省)へと移動していた張献忠軍に圧力をかけ、これによって李自成軍は息を吹き返し、河南を落としました。この地で挙人の李巌と出会い、「均田」(耕地の平等な分配)と「免糧」(当面の間租税を免除する)の二つのスローガンを李巌から提案され、このスローガンと厳正な軍規により農民の支持を集め、一気に数十万の軍勢に膨れ上がりました。これは現代でも通用しそうなアイデアです。しかし、李巌も今日では清初の小説で創作された架空の人物とされているそうなので、今日的解釈なのでしょう。

この勢いに乗って、李自成軍は崇禎14年(1641年)には洛陽を陥落させ、この地にいた万暦帝の三男の福王朱常洵を殺害しました。福王は万暦帝に溺愛され、その贅沢により多額の税金が浪費されたために民衆の恨みを買っていたのです。その倉庫から1割の食料と財物を民衆に渡しました。また、牛金星ら知識人を陣営に取り込んでいくことになります。これらの措置は時代が違いますが、なんとなくフランス革命に似ています。苦しむ民衆の放棄は古今東西の違いはないのかもしれません。

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