桜田門外の変など


コラム挿絵:皇居桜田門の写真

4月15日は旧暦3月18日になります。この日は日本の歴史や文化においてさまざまな出来事が重なり合う日として知られています。この日を振り返ることで、私たちは過去の出来事やその背景にある文化的な意義を深く理解することができます。

歴史的な出来事としては、たとえば、建長元年(1249年)には、元号が「宝治」から「建長」に改元されました。この改元は、当時の政治的・社会的状況を反映しており、鎌倉時代の日本の動乱期を象徴しています。建長元年(1249年)に元号が「宝治」から「建長」に改元された理由は、当時の天変地異や火災などの災害が背景にあります。宝治3年(1249年)2月に里内裏(皇居の一部)が焼失する火災が発生し、その後も大規模な火災が続いたため、これらの災害を断ち切るために改元が行われました。このような「災異改元」は、災害や不吉な出来事を新しい元号によって払拭し、社会の安定を図るための儀式的な意味合いを持っていました。元号「建長」は、『後漢書』の「建二長久之策一」という言葉に由来し、長く安定した時代を願う意味が込められています。現在の元号は天皇の一代であり、いわゆる改元はなくなりましたが、近年の世間の不安を見ると、今こそ必要な措置かもしれません。

また、万延元年(1860年)には、桜田門外の変が発生し、幕末の動乱期における重要な転換点となりました。桜田門外の変は幕末の日本で起きた歴史的な暗殺事件です。1860年3月3日(安政7年)、江戸城桜田門外で、彦根藩主であり幕府の大老だった井伊直弼が水戸藩や薩摩藩の浪士たちによって襲撃され、命を落としました。この事件の背景には、井伊直弼が推進した「安政の大獄」があります。井伊直弼は、幕府の権威を強化するために反対勢力を徹底的に弾圧しました。この弾圧により、尊王攘夷派や反幕府勢力が激しく反発し、井伊直弼の暗殺計画が進められることとなりました。現代なら暗殺テロということになります。襲撃当日は雪が降る寒い日で、井伊直弼の行列が桜田門を通過する際に浪士たちが襲撃を仕掛けました。井伊直弼は刀や銃で攻撃され即死しました。この事件は幕府に大きな衝撃を与え、幕末の動乱をさらに深めるきっかけとなりました。この事件は、徳川幕府の権威が揺らぎ、明治維新への道筋を開くきっかけとなった出来事としても知られています。

旧暦3月18日の文化的な意義としては、春の訪れをはっきりと感じさせる時期でもあります。この時期は、農耕社会において重要な節目とされ、田植えの準備や春祭りなどの行事が行われることが多かったと考えられます。また、旧暦の六曜では「友引」にあたり、縁起の良い日とされることから、結婚式や祝い事が行われることもあったでしょう。現代における旧暦の意義として、現代では、旧暦は日常生活であまり使われなくなりましたが、伝統行事や祭りの際にはその重要性が再認識されています。旧暦3月18日を含む旧暦の日付は、自然と人間の関係を深く理解するための手がかりとなります。たとえば、月の満ち欠けや季節の移り変わりを基にした旧暦は、自然との調和を重視する日本文化の象徴とも言えるでしょう。

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