神仏分離の歴史

明治元年(1868)3月25日(旧暦)明治政府は神仏判然令公布しました。神仏混淆を禁止し神社と寺を分離独立することになりました。
明治政府が真っ先に指令したのが、宗教改革でした。神仏習合(しんぶつしゅうごう)は、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本仏教)が融合し、一つの信仰体系として再構成された宗教体系のことで、神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいいます。現在でも、お寺の中に神社があったり、鳥居があることを不思議に思う人もいる反面、抵抗なく受け入れている人も多くいるのは、日本文化に深く根差している現象で、これを「日本教」と呼ぶ人もいるほどです。宗教が混じり合うことは、それほど珍しいことではなく、古くからある土着の信仰と新たに布教されたキリスト教やイスラム教と混淆した例は多くあります。
飛鳥時代、日本に仏教が到来した当初は聖徳太子が仏教を庇護したこともあって、仏教が主、神道が従、という関係でした。平安時代には神前での読経や、神に菩薩号を付ける行為なども多くみられました。日本で「仏である菩薩が仮に神の姿となった」と考え、阿弥陀如来の垂迹(すいじゃく)を八幡神とし、大日如来の垂迹を伊勢大神とする本地垂迹説が生まれ、鎌倉時代にはその理論化としての両部神道が発生しました。一方、神道側からは「神道が主、仏教が従」とする反本地垂迹説が唱えられました。(wikipedia)このように異質なものが1つになることをシンクレティズムsyncretismといい、異質の宗教、異なる哲学的立場などを妥協させようとする行為のことをいいます。日本はこういう文化的な融合はいろいろな分野で見られます。とくに料理の分野はかなり融合化し変化しています。折衷主義といわれることもあります。
戦国時代には天道思想による「諸宗はひとつ」とする統一的枠組みが形成されるようになり、江戸時代に国学が流行すると、神道の優位が説かれるようになり、神道から仏教的要素を取り除くことが主張されました。それが明治維新による神仏判然令につながったと考えらえます。近年では神仏習合の時代における神仏隔離現象も注目されるようになり、宮中祭祀や伊勢神宮では仏教の関与が除去されていることから、神祇信仰は仏教と異なる宗教システムとして自覚されていると考えられています。神仏関係が全て習合の観念で捉えられていたわけではなかったといえます。神仏習合は、仏教が優位に立ちながらも、神祇信仰が仏教に吸収されてしまうものではなく、むしろ神祇信仰が仏教を媒介にして自立的な神道を形成していったと考えられているわけです。背景としては、国家と宗教の関係があり、奈良時代や平安時代は仏教が国教であったのですが、鎌倉時代や室町時代には新興勢力や外来のキリスト教などが加わって複雑は関係になり、江戸時代のキリシタン禁令と檀家制度により、再び仏教が敷衍したのですが、鎖国が緩んでくるにつれ、西洋文明と国学という相対する思想が神仏の分離という流れになっていったと考えられます。そして太平洋戦争後、再び宗教の自由化により、現在のような混沌とした状況になっていきました。
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