西行の世界
保延六年(1140)神無月十五日望月の日、佐藤義清(さとうのりきよ)という北面の武士が出家して円位となり、号を西行(さいぎょう)と名乗るようになりました。天皇が出家して法皇になり院政をしくのは珍しくないのですが、当時は武士が出家するのはそれなりの動機があったはずです。諸説あるのですが、NHK大河ドラマ「平清盛」では佐藤義清と清盛は親友でしたが、待賢門院璋子との愛憎劇が原因だとしている失恋説をとっています。失恋相手は別の女性という説もあります。親友の死が原因で武士を辞めたという説もあり、後世の人が西行への思いから後付けしたのでしょう。
「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」というのが出家の際の歌とされていて、妻子を捨てて出家するのを「身をすてて」と表現するあたり、現代なら身勝手といわれそうですが、釈尊も王子の身分を捨てて修行に出るので、それに憧れたかもしれません。武士を辞めるというのは現代サラリーマンが会社を辞めるのとは重みがはるかにちがいます。世を捨てることと同じです。
「心なき 身にもあはれは しられけり 鴫(しぎ)立たつ澤(さは)の 秋の夕ゆふぐれ」は通称三夕(さんせき)といわれる名作とされており、場所は鎌倉時代の相摸国餘綾郡(現在の大磯あたり)の海岸段丘を流下する渓流と推定されています。秋の夕暮れの川に鳥が飛び立つさまを見て、もののあはれすらわからないような自分でもしみじみとした趣は自然と感じられるものだなあ、という感慨を詠んだもので、いつの世の人にも共感を呼ぶものです。つまりは日本の伝統的な心をわかりやすく示しています。西行の歌は当時としては俗な表現が多く含まれていましたが、それがかえっていつの世にも共通するものになりました。西行の歌としてさらに有名なのが「ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ」で、実際に釈尊の入滅(涅槃)の日である如月十六日に入寂したといわれています。出家者としては理想の日であると同時に、桜の花の下で死ぬという日本人の美意識を代表したもととして憧れる人は多いです。この二作ほど有名ではないのですが、伊勢神宮参拝の折に「何事(なにごと)の おはしますをば しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」と詠み共感する人も多いです。出家すれば草庵をむすんで隠棲するのですが、旅に出て修行するという様式は後の芭蕉にも引き継がれていきます。京に草庵もあり復元されています。
各地を遍歴する大工などの職人のことを「西行」と呼んだそうで、高杉晋作も東行と号したのは西行を念頭に置いたものです。東とは江戸のことです。旅に出るといろいろなことを自然に思うのは現代の一人旅に通じることかもしれません。能「西行桜」長唄「時雨西行」、落語「西行鼓が滝」など西行をテーマにした作品も多いです。
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