薩英戦争
文久三年(1863)文月二日薩摩藩と大英帝国は戦闘に入りました。そもそもの原因は前年の生麦事件の解決と補償を求めた英国と、実力で要求を拒否する薩摩藩が鹿児島湾で激突しました。
日本での評価はそれほどでもないのですが、海外の歴史家はかなり驚いたようです。日本国と英国の国同士の戦いなら普通のことですが、一地方の軍と大英帝国がほぼ互角に戦ったのは特異といわざるをえません。
生麦事件とは薩摩藩国父島津久光の行列を乱したとして英国人4名のうち3名を島津家家来が殺傷した事件で、当時の日本は不平等条約により治外法権でしたから、英国公使は幕府に対して謝罪と賠償金10万ポンドを要求し薩摩藩には幕府の統制が及んでいないとして、艦隊を薩摩に派遣して直接同藩と交渉し、犯人の処罰及び賠償金2万5千ポンドを要求することを通告しました。幕府はすったもんだの挙句賠償金を支払います。英国は薩摩藩との直接交渉のため軍艦7隻を鹿児島湾に入港させたものの交渉は不調に終わり、英国艦が薩摩藩船の拿捕したのをきっかけに薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃、薩英戦争が勃発しました。
薩摩側は鹿児島市街の500戸以上が焼失するなど大きな被害を受け、一方の英国艦隊側にも損傷が大きく、艦隊は鹿児島湾を去り戦闘は収束しました。この戦争は双方に教訓となり、薩摩藩は英国の軍事力を目の当たりにして、英国からいろいろ学ぶことの重要性がでてきて、攘夷の声は急速に下火になり、藩論は開国へ向け大きく転換していきます。英国側もすでに幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要以上の攻撃であったとし、またそれ以降の日本に対する姿勢を変え、薩摩と英国は接近していきました。
諸外国の反応としては、アヘン戦争において清国を破った英国の艦隊が引き上げるほど強力な反撃だったということで、日本という国を侮ってはならない、という機運になっていきます。また薩英戦争と同じ文久三年と翌元治元年に長州藩も英仏蘭米連合軍と下関戦争と馬関戦争をしており、長州藩は破れて西欧列強の力を知って、海外からの新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化する決意をしました。そして同様な近代化路線を進めていた薩摩藩と薩長同盟を締結し、共に倒幕への道を進むことになります。同じころ、薩摩も長州も英国に後に長州ファイブと薩摩スチューデントと呼ばれる若者を英国に派遣し、彼らが明治政府の土台を作っていったのですから、戦争しつつも相手のことを学ぼうという姿勢は強かったわけです。
江戸幕府側は昔からオランダとは通商関係があり、アメリカとは条約を結んでいたのに、フランスと接近していきました。英仏はそもそも長年対立しており、薩摩が英国になびいたのを見て、幕府に接近し、軍事支援をしていきました。結果的には日本は英仏の代理戦争のような状態で戊辰戦争を戦うことになるわけです。しかし当時の国際情勢は英仏対立だけではなく、独(プロシア)やロシア(帝政)など植民地化を狙う領土合戦の状況であったことも学んでおきたいです。
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