承久の乱
承久3年(1221)6月15日に承久の乱が終結します。今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は承久の乱で終わるらしいですから、ネタバレにならないように事実だけを知っておくと、ドラマが一層楽しめると思います。
承久の乱は後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた戦です。上皇の院宣で討伐対象として挙げていたのは義時であったが、北条家は鎌倉幕府全体への攻撃であるとして東国御家人たちを動員し、京都に攻め上って勝利しました。負けた後鳥羽上皇は隠岐に配流され、鎌倉幕府は朝廷を監視する六波羅探題を京都に置きました。以降、明治維新まで室町幕府、江戸幕府と600年以上に及ぶ武家政権の優位を決定づけた画期的なできごとでした。
承久の乱以前は鎌倉幕府が東国を支配し、諸国に守護・地頭を置くなどして軍事的な支配はしていたものの、西国支配は充分ではなく、依然として朝廷の力が強いままで幕府と朝廷の二元政治の状態にありました。後鳥羽上皇の朝廷の財源は諸国に置かれた膨大な荘園にありましたが、これらの荘園に幕府の地頭が置かれるようになると、しばしば年貢の未納などが起こり荘園領主である後鳥羽上皇やその近臣と地頭が紛争を起こすようになりました。
承久元年(1219)幕府3代将軍の源実朝が甥の公暁に暗殺され鎌倉殿の政務は頼朝正室の北条政子が代行し、執権である弟の北条義時がこれを補佐することとなりましたた。また京都守護として義時の妻の兄の伊賀光季と大江広元の嫡男源通親の猶子として朝廷と深いつながりのあった大江親広を派遣しました。
そして幕府は新しい鎌倉殿として後鳥羽上皇の皇子である雅成親王(六条宮)を迎えたいと後鳥羽上皇に申し出ます。これに対し後鳥羽上皇は藤原忠綱を鎌倉に送り、愛妾亀菊の所領である摂津国長江荘、椋橋荘の地頭職の撤廃と院に近い御家人仁科盛遠への処分の撤回を条件として提示しました。義時はこれを幕府の根幹を揺るがす事案として拒否します。義時は弟の北条時房に1000騎を与えて上洛させ、武力による恫喝を背景に交渉を試みますが、朝廷の態度は強硬で不調に終わります。後鳥羽上皇は皇子でなければ摂関家の子弟であっても鎌倉殿として構わないと妥協案を示しました。このため義時は皇族将軍を諦め摂関家から将軍を迎えることとし、九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉殿として迎え、執権が中心となって政務を執る執権体制となりました。この将軍継嗣問題は後鳥羽上皇にも義時にも、しこりが残りました。
内裏守護の源頼茂(源頼政の孫)が後鳥羽上皇の命によって在京の武士に攻め殺される事件が起きます。朝廷と幕府の緊張は次第に高まり、後鳥羽上皇は義時を討つ意志を固めまずが土御門上皇はこれに反対し多くの公卿たちも反対または消極的でした。順徳天皇は討幕に積極的で仲恭天皇に譲位し協力します。近衛家が退けられ九条道家が摂政となります。寺社に命じて義時調伏の加持祈祷が行われ討幕の流説が流れて朝廷と幕府の対決は不可避になりました。上皇挙兵の報に鎌倉の武士は動揺しましたが北条政子が御家人たちに対して頼朝の恩顧を訴え「讒言に基づいた理不尽な義時追討の綸旨を出してこの鎌倉を滅ぼそうとしている上皇方をいち早く討伐して、実朝の遺業を引き継いでゆく」よう命じたことで動揺は鎮まりました。これがハイライトシーンです。政子が館の庭先にまで溢れんばかりの御家人たちを前に涙ながらの大演説を行ったことで心が動かされ鎌倉武士を結集させることに成功したとされています。
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