徳政令
旧暦永仁5年3月6日(1297)日本で最初とされる徳政令であるに永仁の徳政令が鎌倉幕府第9代執権・北条貞時によって発令されました。内容は
(1)越訴(裁判で敗訴した者の再審請求)の停止。
(2-a)御家人所領の売買及び質入れの禁止。
(2-b)既に売却・質流れした所領は元の領主が領有せよ。ただし、幕府が正式に譲渡・売却を認めた土地や、買主が御家人の場合で領有後20年を経過した土地は、返却せずにそのまま領有を続けよ。
(2-c)非御家人(幕府と御家人関係を結んでいない侍身分の者)・凡下(武士以外の庶民・農民や商工業者)が買主の場合は、年限に関係なく(20年を経過していても)、元の領主が領有せよ。
(3)債権・債務の争いに関する訴訟は受理しない。(wikipediaより)
となっていて、元寇での戦役や異国警護の負担から没落した無足御家人の借入地や沽却地を無償で取り戻すことが目的だったとされています。その結果御家人体制の維持を狙ったということのようです。
現代では金の貸し借りや土地の売買は契約として、政府が無効化できない、というのが常識です。しかし、現実には破産した会社の救済のために債権を減額したり、最近でいえばスイスのように特定の債権の無効化が行われていて、特定の会社救済に政策が関与することは普通にあります。頻繁な徳政令は経済を大混乱させますから、例外的に緊急事態の対策ではありますが、今でも有効と考えられているわけです。個人的な借金踏み倒しは犯罪ですが、国家的な政策であれば犯罪ではないわけです。個人による殺人と国家による戦争の関係に似ているともいえます。それだけ国家は権力があるわけです。またこうした強権発動に際しては必ずといってよいほど、便乗する者が現れます。永仁の徳政令でもこの法令を楯に所領を取り戻したのは御家人に止まらず、東寺領山城国下久世荘(京都市南区)の百姓がこれに基づき、自身の売却地を取り戻したそうです。その結果、以降の徳政令では付随的であったはずのものが一人歩きを始め、それがそもそも救済しようとした御家人制度が崩壊していくことにつながりました。
今回のスイスの政策も、結局はスイスの金融全体の信用を失うことになり、ひいてはスイス経済の衰退につながる可能性をはらんでいます。日本でもリーマンショックで救済した金融機関はその後、衰退していっています。一時的なカンフル注射のつもりが、だんだん中毒のようになっていくのが徳政令といえます。歴史に学ぶべきです。
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