八月一日(ほずみ)
難読人名の1つとして八月一日(ほずみ)があります。これは旧暦の八月一日になると稲などの作物の穂が実るので、穂を摘む季節になった、という意味が語源になっています。新暦だと真夏なのでピンときません。今年は閏月が入ったため、9月15日が旧暦八月一日になります。現代では稲作も早稲(わせ)が中心になり、この頃になると新米もでてきます。閏月がなければひと月後の10月15日頃なので、収穫が始まっても不思議はないです。
八月一日は八月朔日ともいい、略してハッサクです。ハッサクといえば、かんきつ類のハッサクを連想しますが、ハッサクのシーズンは冬で、12月頃から冬に出回ります。本来冬のみかんなのにハッサクというのは、幕末時代の因島(広島県)の寺の境内で偶然発見され、それを食べた住職が八月一日(当然旧暦)頃には食べられると言ったことから、ハッサクという名がついたというのだそうです(https://jpnculture.net/hassaku/)。まあ10月半ばの瀬戸内海で、日当たりがよい寺の境内になった実であれば、どうにか食べられる青い実であったことが想像されます。現在でも青いミカンがこの時期から出てきます。現在のミカンはとても甘いですが、改良されたからで、昔のミカンはもっと酸っぱかったので、それほど差もなかったのかもしれませんね。
八朔の日は、昔は重要な日でした。早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからあったそうです。このことから、田の実節句(たのみのせっく)ともいい、この「たのみ」を「頼み」にかけ、武家や公家の間でも、日頃お世話になっている人に、その恩を感謝する意味で贈り物をするようになりました。今のお中元の贈り物のような感じです。
歴史的には室町幕府において既に公式の行事として採用されていました。幕府の関東地方における出先機関であった鎌倉府でも8月1日に八朔の儀式が行われており、関東の諸大名や寺社から刀剣や唐物、馬などが鎌倉公方に献上され、鎌倉公方からも献上者に対して御礼の品となる刀剣や唐物、馬などが下賜されていたそうです。徳川家康が天正18年8月1日に初めて公式に江戸城に入城したとされることから、江戸幕府はこの日を正月に次ぐ祝日としていました。それは豊臣秀吉が小田原征伐後に進めていた関東諸大名の領国画定作業が8月1日に佐竹義宣の領国画定によってほぼ完了し、徳川氏の新しい領国が正式に確定されています。豊臣政権による新しい徳川氏の領国画定の日が江戸幕府の成立以降に家康の公式の入城日と解釈されるようになったと考えられています。実際の入場はそれよりひと月前だったようです。江戸時代までは八月朔日は大事な行事だったのが、明治になって新暦の導入と共に、行事も廃止になってしまいました。武家の行事だったので無視されたのでしょう。明治の維新では、武家の行事はほとんどすべて廃止されてしまいました。革命というのは常にこういう側面があります。何もかも変えてしまいたいのです。
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