言語と宗教と政治の関係


宣教師

日本人が英語を学びたい、という動機はほぼ経済的理由でしょう。日本が海外で日本語を教える動機も同じだろうと思います。しかし外国が自国語を広めようとする動機が経済だけとはかぎりません。むしろ政治的動機とか宗教的動機の方が大きい場合が多いのです。安土桃山時代以降に日本にやってきた外国人はポルトガル人、スペイン人の宣教師であり、キリスト教の普及が最大の目的でした。事実、キリシタンの増加は社会変革にもつながることを恐れた秀吉も家康も切支丹禁止に動いたわけです。それ以前にやってきた外国人はシナ人や朝鮮人ですが、特に僧としてやってきた鑑真を始め、宗教目的が動機であった人は多かったのです。また明治維新後や太平洋戦争後には大勢のキリスト教宣教師がやってきて、教会を建てるだけでなく、学校の設立をしましたが、当然、普及が前提にあります。実際、現在でもミッションスクールでは宗教の時間があります。欧米にかぎらずイスラム教圏でも、教育と宗教はセットになっているのが常識であり、そうでない国では既存宗教の代わりに共産主義や個人崇拝があるので、見方を換えると、形の変わった宗教ともいえます。日本では戦後、宗教への嫌悪感が定着し、教育と宗教、政治と宗教の分離が原理原則とされていますが、実際には不完全な形で継続されているのが現状です。

言語と宗教、言語と教育、言語と政治は不可分であり、とくに諸外国では言語政策が国策の重要な部分を占めていますが、日本は政治家の主張に言語問題がでてくることはほとんどありません。では日本国内に言語問題がないか、というとそうではありません。国内に日本語以外の言語が存在しますし、英語教育は重要な課題です。また移民と言語問題は不可分です。移民に対して日本語を強制するだけの同化主義がうまくいかないことは「移民先進国」の例と歴史が示しています。移民先進国の1つであるアメリカでは、日本人が考えるアメリカ英語の話者の人口比は急激に減少しており、公用語として公認されている言語がたくさんあります。アメリカの「国語」は何なのか、いつも議論になりますし、実際national languageという表現はしません。アメリカの場合は極端な多言語国家ですが、これが世界の標準ということではありません。世界の中には多言語国家もありますが、国語が圧倒的多数の国も多くあります。このように言語分布は多様であって、アメリカのようなモザイク状言語分布の国もあれば、日本のように寡占型言語分布の国もあるのが多様的といえます。これは宗教についても、同じような分布が見られます。宗教は民族と結びついているのが一般的で、言語もまた宗教や民族と結びついています。文化は言語と宗教と民族を背景としていますから、その分布も同じ傾向を示しています。従って、言語学習は文化学習と不可分であり、宗教や民族学習とは不可分とまではいえないにしても、深い関係性があります。日本人の言語学習が経済目的だけを動機としているのは、ある意味偏っていて、世界から見ると異常な感じがするかもしれません。

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