バイリンガル教育



日本で誤解されているものの1つがバイリンガル教育です。二言語教育と聞いてもピンと来ない人がほとんどだと思います。日本でバイリンガル教育を唱える人は聴覚障害児教育において手話を導入しようと主張する人々です。本家ともいうべきアメリカのバイリンガル教育はアメリカ国内に英語の話せない国民が多く存在し、その児童も含めて、英語をどのように習得させるか、という目的で考えられたものです。その対象は移民の児童で、英語を習得しないままではアメリカ国内での雇用は不利であり、所得が低いままになります。英語のできない家庭の子供は、この負のスパイラルに入ってしまうので、それをなくすために、早期から英語教育をする国策が古くからあります。その1つは日本でも有名になったセサミ・ストリートで、移民の児童がテレビを見ているうちに自然に英語に親しんでいくようにプログラムされたテレビ番組です。しかし幼児はテレビだけでもいいのですが、小学校以降の教育はテレビだけという訳にはいきません。学校教育は原則として英語で行われます。そうすると英語、とくに白人英語を母語とする児童と、白人英語を母語としない児童では差が生まれます。そのハンディを少なくするには、その児童の母語で教育をすることが理想だという思想があります。それがバイリンガル教育です。バイリンガルとは二言語ということですから、1つは英語で、もう1つはそれ以外の言語ということになりますが、それ以外の言語は多様です。当初の対象は黒人英語でしたが、その次はスペイン語、そしてネイティブ・アメリカンの部族語ということでした。学校で母語を使うということは単に英語を習得する、というだけではなく、必要な知識を習得させることもできるわけです。しかしことは理想通りには運びません。現在の日本を見ればわかるように、最先端の単語は英語ばかりです。英語以外の言語の語彙は知識の基盤となる概念に対応する単語がない場合が多いのです。黒人英語やネイティブ・アメリカンの言語は口語のみですから、学校で使う文語の英語に対応する語彙は圧倒的に不足しています。対応策としては借入語を次々に作成するしかないのですが、その借入語はある程度時間をかけて安定化するものです。急激な導入をするといろいろな訳語ができて混乱になります。明治時代の日本を考えると、その混乱が想像できると思います。ではなぜバイリンガル教育をするかというと、人権意識や教育理念が先行しているからです。実際の教育現場では、全部英語にした方が効率的という意見とバイリンガルにした方が効率的という意見に分かれています。バイリンガル教育の成果として、民族意識の高まりとアイデンティティの確立が叫ばれています。つまり民族運動の一部になっているわけです。日本でもその影響があり、日本国内に存在する少数言語としてアイヌ語や手話が指摘されていますが、どちらも借入語と新語作りにより日本語との対応が促進されています。同時に民族としてのアイデンティティが叫ばれている点も共通しています。言語教育は社会運動とは不可分なのです。

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