太閤検地
天正十年文月八日、羽柴秀吉は所領の近江で初めて検地を行いました。これが太閤検地の始まりとされています。また天正十六年のこの日、刀狩令が発布され百姓から刀や鉄砲などの武器を徴収し、同時に海上賊船禁止令で水軍による海賊行為の禁止が行われました。これらは安全保障の内政として重要です。現在の銃刀法による日本に治安状態と銃規制のない米国との違いがその重要性を示しています。
太閤検地は納税の安定性という国家経営の礎を築き、実際明治政府による地券発行まで、若干の修正があっても維持されてきました。秀吉の実力があった証でもあります。
各大名も自分の領地の検地を行い税収の確保を行ってきました。織田信長も検地を実施していたのですが、この時の奉行人であった木下藤吉郎が実務を担当しており、その重要性を把握していたと思われます。太閤を名乗る天正十九年(1591)以前からのものを含め、秀吉が関わった検地を太閤検地と呼んでいます。天下統一して関白となった秀吉はその後、関白を辞して太閤となり、天皇への叡覧にされる「御前帳」になぞらえて、検地によって得られた検地帳を元に、国ごとに秀吉が朱印状で認めた石高を絵図を添えて提出するよう命令しました。これを「天正御前帳」といいます。
太閤検地は権利関係の整理や単位統一が図っただけでなく、農民への年貢の賦課、大名や家臣への知行給付、軍役賦課、家格など、経済の基礎となる正確な情報が中央に集権されて把握された内政としての意味は大きいといえます。太閤検地の基盤となったのは度量衡の統一にあります。
それまでは米を測る桝の大きさにも違いがあり、長さや広さの単位もばらばらでした。今日でも畳にその名残が残っています。太閤検地では桝を京桝に定め、6尺3寸=1間(けん)、1間四方=1歩(ぶ、今日の坪)、30歩=1畝(せ)、10畝=1反(たん)、10反=1町(ちょう)と定めました。今日では1間は6尺になっていますが、それは明治24年(1891)の改定によるものです。織田信長の時代は1間が6尺5寸、太閤検地で6尺3寸、江戸時代には6尺1分とだんだん短くなっていったのはそれだけ家が小さくなっていったことを示しています。1間は柱と柱の間の間隔のことで、検地以前の建物では柱の間隔はバラバラでした。実際、神社仏閣では中央が広く、端が狭くなっていたり、手前を広くして奥を狭くする遠近法的な建築が目立ちます。部屋も江戸間は6尺四方、京間は6尺5寸と16センチも違うので、広さの間隔がまるで違います。古民家で江戸時代以前の家が広く感じるのは実際広いからです。
秀吉は朝鮮半島から唐への進出も試みるなど、外国情報にも通じており、呂宋(るそん)助左衛門を通じての海外貿易も促進していたので、キリスト教による植民地支配の怖さを認識しており、天正十五年に伴天連追放令も出しています。原因は長崎がイエズス会領となり要塞化され、信者以外の者が奴隷として連れ去られているという情報があったからです。宣教師に危害を加えたものは処罰し、個人が自分の意思でキリスト教を信仰することは自由とし、大名が信徒となるのは秀吉の許可があれば可能とする信仰の自由を保障するものであったことは知られていません。
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