土用の丑の日
今年は7月24日が土用の丑の日です。鰻の厄日です。丑の日に鰻を食べる習慣を広げたのは平賀源内という江戸時代の学者だというのが通説になっています。平賀源内がうなぎを広めるに至った理由は彼なりにうなぎを世間に広く食べてもらうためのマーケティングの一環だったと言われています。うなぎは現代社会でも高級品ですが、江戸時代でも一般市民にとってもかなり高級な食べ物だったそうです。うなぎを食べるという風習は少なからずありましたが、まだまだ世間一般的には定着していないこともあり、「どうすればうなぎをもっと世間に広く食べてもらえるようになるのか?」と考えた末の彼なりの策だったようです。土用の丑の日の「丑(うし)の字」の「う」にちなんで「う」のつく食べ物としてうなぎを食べて習慣や風習を世間に広めるように意図されたようです。夏土用は黒い食べ物、「う」のつく食べ物を食べるとよい、という旧暦の習慣をさらに「う」の日に限定することで、せめてこの日は高価でも食べなさい、というキャンペーンでした。それから平賀源内の目論見は見事に成功し、毎年訪れる土用の丑の日にうなぎを食べる習慣を世間一般に定着させることとなったと言われています。平賀源内がうなぎを広めた人物として世間一般的に認知されているのですが、一部では平賀源内が土用の丑の日にうなぎを食べる風習の発祥ではないという説も囁かれています。平賀源内でなければ一体誰が土用の丑の日にうなぎを食べる風習を広めたというのでしょうか。
実は平賀源内が活躍した江戸時代よりも遥かに昔の時代にその痕跡が残っているという、少し信じがたい驚きの事実が分かってきました。江戸時代の平賀源内が発祥といわれていますが、それよりも遥か以前に大伴家持という人物が土用の丑の日にうなぎを食べる習慣や風習を広めたのではないかと言われています。大伴家持という人物は奈良時代の貴族であり歌人です。この大伴家持という人物がうなぎを食べる習慣の祖ではないかとされる根拠が万葉集の一説にあります。万葉集の原文は「石麻呂尓吾物申夏痩尓吉跡云物曽武奈伎取喫」ですが、【石麻呂(いしまろ)にわれ物申す夏痩に良しといふ物ぞ武奈伎(むなぎ)取り食せ】と読み下します。これが万葉集の一説にありますが、この武奈伎(むなぎ)という言葉がウナギのことと言われています。現代風に書き直すと「石麻呂に吾(われ)物申す夏痩せに良しといふ物ぞ鰻(むなぎ)漁(と)り食(め)せ」となります。意味は「俺は石麻呂に言ってやったんだよ。夏痩せには鰻がいいから捕って食えと」ということになります。万葉集の一説に上記のような歌があることから、これが土用の丑の日にうなぎを食べる習慣や風習の祖は大伴家持ではないかという根拠になっています。ただし土用とも丑の日とも言っておらず、夏痩せには栄養のある鰻がいい、といっているにすぎません。また万葉集の時代は現在の蒲焼とは異なり、鰻をぶつ切りにし、串刺しにして焼き、味噌や塩をかけて食べたそうです。その形がガマの穂に似ているため「蒲(ガマ)焼き」と呼ばれるようになり、それが次第「蒲焼」となったとされています。
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