ポツダム宣言
ポツダム宣言とは、1945年7月26日にアメリカ大統領、イギリス首相、中華民国主席の名で日本に対して出された、13か条からなる宣言です。正式には日本への降伏要求の最終宣言と言います。
ポツダムとはドイツのベルリン近郊にある町の名前です。ドイツ降伏後、米英ソ3国の首脳がこの町に集まり、第二次世界大戦の戦後処理について話し合いが持たれました。その中で日本と戦争状態にあった主要三国であるアメリカ・イギリス・中華民国の共同声明として発表されました。
原案のほとんどはアメリカが作成し、他の国は内容に関与していません。まずは日本に対して全日本軍の無条件降伏を要求しています。
その後に、
①日本国民を欺き、過ちを起こさせた勢力を取り除くこと
②そのための新秩序ができるまでは日本国領域内は連合国に占領されること
③日本国の主権は本州・北海道・九州・四国および連合国が決定する諸小島に限ること
④言論・宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重が確立されること
⑤日本国民の意思による平和的政府が樹立されること
などが記載されていました。日本に伝わったのは翌日の27日でした。外務大臣東郷茂徳はこれを拒否すると重大な結果を生む、しかしまだ交渉の余地はあるので今は黙っていたほうが賢明だろうと考えました。一方陸海軍は反発します。いずれ国民にも伝わるので先に断固抵抗する旨発表するべきだと主張したのです。結局政府としては東郷の意見を採用し、内容については公式発言を控える、ということで閣議決定しました。翌日、改めて陸軍から政府が宣言を無視することを正式に表明すべきと強固な要求を受けたこともあり、鈴木貫太郎首相は記者会見を開きます。そこで鈴木首相は「ノーコメント」という意味合いで「黙殺」という表現を使いました。この言葉を日本の通信社は外国向けに「ignore(無視する)」と訳して伝えましたが、海外の新聞では「reject(拒否)」と伝わってしまいました。アメリカの大統領はルーズベルトが急死したため、トルーマンが就任していました。トルーマンは日本がポツダム宣言を最初は拒絶してくることは折り込み済みでした。むしろポツダム宣言の拒否によって、日本への原爆投下を正当化しようと考えていたのです。ポツダム宣言と核攻撃を組み合わせることで日本を降伏させようと考えていました。1945年8月6日、世界で最初の原子爆弾が広島に投下されました。8月9日には長崎へ2つ目となる原爆が投下されました。9日にソ連軍が日ソ中立条約を破り、国境を突破。同時にソ連もポツダム宣言に参加しました。鈴木首相は最高戦争指導会議で「ポツダム宣言受諾やむなし」の方針を出します。その会議中に長崎へ二発目の原爆が投下されたことが報告されます。
10日未明の昭和天皇臨席の御前会議でもまとまらず、天皇の判断を仰ぐことにしました。いわゆる「ご聖断」です。昭和天皇はもはや勝ち目がないこと、軍の武装解除や戦争責任者の引き渡しは忍びないが、国民や世界の人々を救うためにはこれしかない、というのが理由でした。
その結果「天皇統治の大権を変更しない」という了解のもとポツダム宣言を受諾することが中立国であるスイスとスウェーデンに向けて送信されました。アメリカ側はこれを受け12日、「天皇及び日本政府の国家統治権は連合国軍最高司令官にsubject toする」という返答をします。日本はこのsubject toを「制限の下におかれる」と捉えた外務省と、「隷属する」と捉えた軍部の間で対立。軍部強硬派は国体護持について再照会を主張します。翌15日、政府は国民に向け、ポツダム宣言の受諾と降伏決定を発表。昭和天皇が直接国民に語りかけるという形が取られます。戦前は天皇陛下の声が国民に放送されるというのは異例のことでした。9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ上で降伏文書が調印され、第2次世界大戦は終結しました。ポツダム宣言で規定された日本の領土については、外交問題や領土問題として今日まで残っているものもあります。
引用(https://nihonsi-jiten.com/potsdam-declaration/)
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