民族の語源



「みんぞく」というと「民族」と「民俗」が同音異義語で、しかも意味が似ている面もあり、会話の中ではしばしば混乱が起きます。また学問分野でも「民族学」と「民俗学」があります。英語ではそれぞれethnology, folklore studiesといい、混乱はありません。博物館としては、大阪に国立民族学博物館(民博)があり、千葉に歴史民俗博物館(歴博)があります。展示物を見ると、民博がなんとなく国際的であるのに対し、歴博は国内的というような感じがします。研究者も概ねそういう風に分かれている傾向があります。この関係は日本語学と国語学のような関係にもいえるので、日本は伝統的に、国外と国内、外国と日本、という区別がはっきりしている文化をもっているといえそうです。「民族」という言葉は、日本語において「人々の集団」を指す言葉として広く使われています。この言葉の語源を探ると、いくつかの重要な要素が浮かび上がります。「民」という漢字は、古代中国に由来します。この漢字は、目を閉じた人の姿を象形的に表しており、もともとは「目を閉じる」という意味を持っていました。後に、「民」は「人民」や「庶民」を意味するようになり、広く使われるようになりました。「族」という漢字もまた、古代中国に由来します。この漢字は、矛(ほこ)を持つ人々の集団を象形的に表しており、もともとは「戦士の集団」を意味していました。後に、「族」は「家族」や「一族」を意味するようになり、広く使われるようになりました。「民族」という言葉は、これら二つの漢字が組み合わさって形成されました。「民」は「人民」や「庶民」を、「族」は「集団」や「一族」を意味します。したがって、「民族」は「人民の集団」や「特定の文化や歴史を共有する人々の集団」を指す言葉として使われるようになりました。現代において、「民族」という言葉は、特定の文化、言語、歴史、宗教を共有する人々の集団を指す言葉として広く使われています。例えば、日本国内においてもヤマト民族、アイヌ民族などさまざまな民族が存在します。昔は単一民族、単一言語の国というような主張もありましたが、現在では、それぞれの民族は独自の文化や伝統を持ち、それがその民族のアイデンティティを形成している、という「国際的な視点」から、日本にも複数民族がいる、ということが常識化されました。一方で政治の世界では、民族派というのは国粋主義とほぼ同義になっており、排他的ニュアンスがあるのは、語義矛盾かもしれません。これは英語のnationalismを「民族主義」と訳したことが原因でしょう。国粋主義ならば英語のニュアンスと似ていますが、民族主義は今日的意味なら、ethnocentrismsであり「自民族主義」が直訳ですが、そう訳すべきだったと思います。この誤訳の問題は、現代のように、民族間の力関係により、マジョリティとマイノリティの問題になると、本来は自民族主義がどちらにも存在するのが、多数派のみの意識改革のような論理になってしまう、ということにもつながっています。相互主義によれば、双方が理解し合うことが必要なのですが、一方的になると解決の道は遠のいてしまう、と思います。

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